2010年10月1日 第7回出題「大和守安定」


 今回の答えは、切れ味では新刀随一と謳われた江戸の刀工、大和守安定でした。

 出題文最後のヒントで確信を得た入札者も多いかと思われます。今回も多数の方が一の札で「当」を取っておられ、いつもながら入札者各位の識見の高さに敬意を表します。

 一部の札に長曽弥虎徹の札がありましたが、時代と国を外しておりませんし、虎徹の刀にも試し銘が多くあることから同工への入札も頷けますが、出題文に地鉄の精美さ、又は相反する所作として「テコ鉄」の記述がなく、出題の押形では虎徹によく見る直刃調の長い江戸焼出しが見られないこと、帽子が三品風の湾れ帽子(虎徹にも、この手の帽子はありますが・・・)などを勘案すれば、大和守安定と絞り込むことも可能かと思われます。

 安定は通称を「宗兵衛」と称し、江戸は神田白銀町に居住、また豊島郡巣鴨や板橋でも鍛刀しています。姓は「冨田」又は「飛田」(いずれもトンダと読む。)と称し、はじめ大和大掾、後に大和守を受領しています。少し古い刀剣書籍には、本国が越前で康継門とされていますが、最近の研究では紀州石堂出身が有力説となっています。その根拠としては、紀州石堂派の刀工、和歌山住冨田安広との合作刀の現存が知られています。紀州石堂の為康、康広も「冨田」姓を称していることから、なんらかの関係があったことが伺えます。

 明暦元年には、伊達家の招聘により仙台へ赴き、奉納刀を製作しています。この明暦元年という年は、弟子で仙台出身の初代安倫(承応三年に江戸に出て大和守安定に入門)の没した年でもあります。二代目安倫は初代の弟が跡を継ぎ、明暦二年出府して、初代と同じく大和守安定に入門、その後、仙台安倫家は九代続き、明治維新を迎えています。
 その他の弟子には、二代目安定(宗太夫安次、隼人佐安次同人か)、安家、武蔵守安利、相州住安宗などがいます。

 紀州石堂出身でありながら、越前康継一門とも相当密接な関係があったといわれていますが、実際は、江戸の和泉守兼重などとの関わりが深かったようです。安定の作刀銘より考えて、生年は元和四年(1618年)と判断でき、初代康継の没年が元和七年(1621年)であることから、初代康継との師弟関係は年代的に無理があります。越前康継一門と関係があるとすれば、二代康継の活躍時期が時代的に合致します。
 なお、安定には年紀入りの作品は稀であり、裏年紀のあるものは金象嵌試し銘入りのものと同様に珍重されています。作風の近似性、刃味や茎に金象嵌の試し銘が多く入れられていることから、前述の和泉守兼重や長曾祢虎徹、法城寺正弘との関係も取りざたされています。これらの詳細については紙面の関係上割愛させて頂きます。
 
 安定の作風ですが、刀姿は俗にいう寛文新刀体配と呼ばれる反りが極めて少なく、切先詰まりこころで、先幅と元幅の差が極端に開いたものと、江戸物では珍しく、先反り気味で姿の良いものが稀にあります。更に彼の作品には、刀、脇差ともに寸の延びたものが多く、加えて庵の棟が急峻であることも特筆されます。
 地鉄は良く詰んで小杢目が美しいものと、詰んではいるが滓立つものとがあり、なかには柾目肌が現れたものもあります。 柾目肌は鎬地に最も顕著に現れます。地鉄の色は黒ずんだ感じで、沸が盛んについて、沸の激しいものは棟焼き又は飛焼きに、あるいは荒沸となり、薩摩刀に酷似した出来もあります。刃文は湾れに角張った五ノ目や尖刃を交え、大きく乱れた刃文に乱れの谷が直刃調に、いわゆる箱刃風になるのが手癖といえましょう。虎徹や兼重によく見る、五ノ目を連ねた数珠刃風のものは、あまり見かけません。帽子は、地蔵風で湾れ込んで、三品帽子のようになったものを多く見ます。上記の特色は刀姿と箱刃を除けば、初代康継の作風と共通するものが多く、然るに師弟説があるのも納得することができます。

 安定の作品は切れ味に定評があり、山野家の截断銘が有名で、とりわけ加右衛門永久(山野流始祖)のものが多く、「天下開闢以来五ツ胴落」の金象嵌銘は有名であります。山野家以外の切り手では、村井藤右衛門や山中勘三郎智重などが知られています。また、伊庭八郎や新撰組の沖田総司、齋藤一、大石鍬次郎の愛刀としても知られています。

 それでは、今回はこの辺で失礼をさせて頂きます。次回をお楽しみに。

                               竹   屋   主   人