2010年12月1日 第9回出題「藤原弘幸」


12月の回答は、藤原弘幸でした。
かなりの難問と見えて、一の札での「当」はごく僅かで、出題者側からは「してやったり」と、聞こえてきそうな出題でした。

 平安城弘幸は、堀川国広門といわれていますが、新刀鑑定の大家と言われる、神津伯翁著「新刀鍛冶綱領(上)」の、「平安城弘幸」の項に、『此作国広弟子と云ふ説あり是非を知らず、然れとも之れを實物に徴するに或は然らんと思はるる節もなきにあらず。』と、堀川国広弟子説には多少否定的な文面が窺われます。しかしながら、現在では堀川国広弟子説が通例となっています。
 初め弘幸と切銘し、「丹後大掾」を受領したと古書に記述がみえます。師と言われる国広没後の慶長末年に、「丹後守」を受領し、「丹後藤原弘幸」又は、「丹後守広幸」と切銘があり、「弘」から「広」に改めことが解ります。

 作品中、刀は僅少で脇差・短刀の作品が圧倒的に多く、また、年紀を有する作品が非常に少なく、現存するものでは「慶長十三年」の弘幸銘に限られ、同年八月日の脇差と短刀が各一口、更に同九年の短刀が確認されているにすぎません。広幸改銘後の作品に年紀あるものはないというのが定説となっています。

 刀の作品には、概して不出来なものがあり、見るべきものはないと酷評されていますが、脇差・短刀には優品が多く残されていることは特筆されます。
地鉄は、細かに良く詰んで少し柾がかった小板目の現れたもの、堀川物の特徴であるザングリとした肌合いが、より精緻にまるで備中青江の縮緬肌を見るが如くの作品もあります。
刃文は少湾れに小乱れが混じるものが多く、また大和手掻派に見るような直刃もあり、これに金筋や砂流しが掛かったものを見ます。帽子は掃きかけ気味に返るものや、小さく丸く返るものがあります。

茎は棟が角となり、鑢目は堀川一門(国安を除く。)が大筋違であるのに対し、弘幸の鑢目は切鑢か勝手下がりとなり、堀川一門中、前述の国安とともに異色であります。

切銘は、「平安城堀川住弘幸」と切るものが最も多く、「堀川住」を省略したものや、彼の姓でもある「清水姓」を冠した「山城国堀川住清水丹後守藤原広幸」などがあります。

 今回の入札では、一の札で「東山美平」の入札が多くありましたが、時代及び国は外しておりませんので、個銘当りではなくも結果的には良い札だと思います。

東山美平について簡単に説明を致しますと、美平は通称を伝三郎といい、埋忠重義の門人で当初京西陣に居を構え、後に塔ノ壇に移住し、天和初年にある事件を起こし埋忠一門を刃文されたと言われています。美平は弘幸と違い、刀の作品が多く、次いで脇差の作品が残されています。

彼の作品の特徴として、出来不出来の差が非常大きく、同一人物の作品かと疑いたくなるようなものが多いようです。刃文と茎仕立てに特徴があり、刃文は異風なものが多く中でも片矢筈になったものは美平極めの指標となります。茎の鑢目は目釘孔付近から掛け始め鑢は細かく、やや勝手上がり気味になるのを手癖とし、更に目釘孔は区際に近く開けるのも特徴の一つであります。簡単ではありますが、今回の出題文とかなり違いがあることがお解かり頂けましたでしょうか。

それでは、今回はこの辺で失礼致します
今年一年のご愛顧ありがとうございました。
来年も宜しくお願いします。
それでは皆さん良いお年を!!

           竹 屋 主 人