2011年4月1日 第1回出題「岩井鬼晋麿源正俊」 4月の答えは、岩井鬼晋麿源正俊でした。 今回ほとんどの方が、四谷正宗こと源清麿の一門刀工への入札となりました。 これはこれで真に結構な入札であり、個銘当りはむしろ神業と言えましょう。 私も、たしか清人あたりに入札したと思います。 今回の出題に関して、討論掲示版で活発な意見が交わされていますが、低迷する刀剣趣味の世界において非常に有益でかつ喜ばしい事と思います。 岩井鬼晋麿源正俊(以下正俊という)は、隆 慶一郎著の「鬼麿斬人剣」の主人公としてTVドラマ化もされて、知る人ぞ知る幕末の刀工ですが、ドラマ放映後、徐々に脚光を浴びて来たように思います。 彼は、文化十一年(1814年)に上総国関宿(柴田先生解説には相州関宿となっています)に生まれ、上総国関宿藩主で従五位下、久世長門守広運の八男としています。 後に旗本岩井平左衛門克匡(勝匡とも)の養子となり、江戸柳川に居住していましたが、日本の夜明けを見ずに元治二年(慶応元年)に没しています。 前述の小説では慶応三年(1867)に暗殺されたようですが・・・ 正俊は、その作風などから清麿門とされています。 佐藤寒山先生著の『日本刀を語る』(青雲書院)には、「清麿の門人には、江戸の人鈴木次郎正雄、上総国正直、同じく岩井鬼晋麿正俊らが先輩格で、次いで越後国の出身者に栗原謙司信秀があり、出羽庄内の出身に斎藤一郎清人がある。」と記述があるので、清麿の比較的早い時期の弟子であったことが判ります。 しかしながら永山光幹先生著の「刀剣鑑定読本」には細川正義門との記述が見えます。 二代目細川正義や大慶直胤にも師事した期間があると言われていますが、その時期は、清麿自刃後の嘉永七年以降ではないかと推測します。 二代目正義と正俊とは出身が同じ下野国鹿沼の出身であり、各種文献などから年齢差が三十歳と当時としては、父子又はそれ以上の年齢差ということが解ります。 正俊が旗本岩井家に入り、江戸柳川に居住した頃に同郷の縁で鍛刀の技術を教わっていたのかもしれません。 細川正義門下の証左として、表銘に「作陽幕下士細川源正義(刻印)行年七十三才翁」、裏銘に「岩井鬼晋麿源秡国 安政四年二月日」と合作銘のある刀が残されています。 「秡国」銘は「正俊」銘の前銘と言われていますが、この刀より古い年紀のある正俊の作品については、私自身の手持ちの資料がなく改銘の時期等については解りませんが、「以南蛮鉄精鍛之」の添銘のある万延二年紀(文久元年)の作品に「正俊」銘を使用していることから、概ね安政の末年から万延元年頃だろうと推測することができます。 ちなみに正義は前述の合作刀完成の翌年安政五年六月に没しています。 また、大慶直胤は安政四年五月七十九歳で没しているので充分に直胤師事説も年代的には頷けます。 上総国正直には嘉永年紀の作刀があり、清麿門下として活躍した形跡が見られるのに対し、正俊の作品は少なく、また文久年間の年紀作が多いのは如何なる理由なのか。 花散里氏の言葉を借りれば「良い腕を持ちながら「一協力者」で終わった数多くの刀工達がいた。」それも一理あるような気もしますが、そもそも当時の大名や旗本さらには下級武士までもが余技、余芸として日本画の絵師や刀工、金工などから技術の手解きを受け、中には美術史上に名を残す名工になった人もいれば、糊口を凌ぐための手内職として技を極めた下級武士もいます。 さて、正俊はどうであろうか。彼は八男とはいえ、上総国関宿藩主のご子息で尚且つ、旗本岩井家へ養子となりかなりの名門であります。 ここで正俊の生家である久世家について私なりに考察してみました。 彼の父久世広運の跡を継いだのは、養嗣子となった久世広周です。 広周は旗本の大草高好(禄高3500石、能登守のちに安房守に叙任、天保十年五月の蛮社の獄において渡辺崋山らの吟味を行った)の次男で、嘉永四年(1851年)、老中として阿部正弘らと共に諸外国との折衝に努力しましたが、安政の大獄で井伊直弼の強圧な処罰方針に反対したため、直弼の怒りを買って罷免させられています。 万延元年(1860年)、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任、信正と共に公武合体政策を推進しました。 しかし文久二年(1862年)、信正が坂下門外の変を機に老中を罷免されると、公武合体の失敗や信正との連座などの罪を問われ、老中を罷免されて失脚しました。 換言すれば、正俊自身の周辺では幕末史上の大きな事件がおき、それに少なからず関与せざるを得ない環境にあったのはないでしょうか。 幾ら鍛刀の技術が向上したからといえ、自分自身の立場(義兄は老中、自分は旗本)を考えれば、自身作の刀に銘を切り、世間に出すことを躊躇しても可笑しくない立場であったのではないでしょうか。 ちなみに正俊の在銘で年紀入りの刀は、義兄の宿敵、井伊直弼が暗殺された直後の万延年紀や文久年紀が多くあるというのも面白い話でありますが。・・・ 以上が今回の解説であります。 内容に異論のある方もおられましょうが、あくまでも竹屋主人の私論ということで、お目汚しではありますがご勘弁をお願いします。 竹 屋 主 人 『読者の見方』 M氏 反りの浅い、大きな帽子。南北朝期の摺上げ、慶長新刀、新々刀。茎が生なので慶長新刀か新々刀。刃文のできから伯耆守正幸、源清麿など。 茎が栗尻なので、正幸はのぞき、ヒントに有名刀工の弟子とあるので、斉藤清人、栗原信秀か。頭の丸い互の目から斉藤清人としてみました。 竹屋談:先回の実阿の鑑定所見に続き、解説者も脱帽の所見です。 |