2011年5月1日 第2回出題「主水正正清」


 平成23年5月の答えは、主水正正清でした。

今回の入札も一の札で「当」を取っておられる方が多く、参加者の研鑽努力の様子が窺える結果となりました。

 薩摩国は古くから波平鍛冶が伝統を守ってきましたが、新刀期の初め(天正年間)に、美濃の若狭守氏房門の丸田備後守氏房と、その子、伊豆守正房が薩摩に移住して薩摩新刀の祖となりました。
 伊豆守正房と三代目の丸田惣左衛門正房が腕利きの刀工として名を挙げています。
 この惣左衛門正房の弟子が今回の「主水正正清」であります。
 寛文十年(1670)生まれで、家系は詳らかではありませんが、宮原姓を名乗り、清右衛門または覚太夫を称したとあり、享保十五年(1730)六月六日に没しています。
 初銘を清盈、後に正清に改銘していますが、清盈銘のものは数が少なく、稀少な作品と言えます。
 また別の資料によりますと、清盈銘の他に吉景と銘を打ったものもあるそうです。
 また、伊豆守正房の弟子に一平安貞がおり、その子が、「主馬首一平安代」であります。
 正清は安代とともに薩摩新刀の双璧とされ、享保六年(1721)正月、八代将軍吉宗による江戸の浜御殿で催された鍛刀奨励会おいて、その技量が認められ、褒美に刀の茎に葵一葉を切ることを許され、次いで薩摩へ帰路の途中、京都の朝廷から、正清は、「主水正」、安代は、「主馬首」の官位を受領しました(この時の官位受領については、「主馬首一平安代」の解説時(第3クールの7回)に、記述していますのでそちらを参照して下さい)。

 その後、享保九年(1728)に幕府より、将軍吉宗公の佩刀二振りを鍛えるように命ぜられ、島津藩より切米六石(切米とは江戸時代、幕府や諸藩が軽輩の士に与えた俸禄米、または、金銭のことで、春・夏・冬の年3回に分けて支給された)を賜り、城下の西田町に居住し、正清一門は西田鍛冶と称されて鍛刀に精を出しました。

 正清の作風ですが、この時代の薩摩刀工は、他国の刀工と比べ作風が異なり、とりわけ体配が慶長新刀然とし、反りが浅く、切っ先の伸びた豪壮な姿のものが多いことが特筆されます。
 正清の作品には刀が多く、脇差がそれにつぎ、短刀は僅かながら遺されているようです。

 鎬幅の狭いものと広いものの両様があり、鎬幅の広いものでは棟を卸して鎬を高くし、重ねを厚めに造り込んでいます。
 また、正清や安代には先反りがついたものがあるので、鑑定会などの時には注意したいものです。
 地鉄は小板目が詰んで流れ心のものが多く、それとは別に小板目に杢の混じるものがあり、総体的には地沸は良くつきますが、ムラ沸となる箇所があり、更には部分的に地肌が流れて、黒味のかかる地景風の変わり鉄が見られます。
 これが刃中に出たものを、「薩摩の芋蔓」とか「正清の鼻垂れ」などと呼ばれています。
 
 芋蔓とは、砂流しの粒が大きく金筋に成りきれずに、その沸粒が数珠の様に長く繋がり、あたかも芋の蔓のような感じのものをいいます。
 正清の場合これが二重三重に現れて焼刃を構成するものがあります。

 また、正清の特徴のひとつとして、薩摩肌と呼ばれる大肌が、刀身上に複数みられることがあり、特にハバキ元に出ることが多いのでご承知おき下さい。
 刃文は、直刃調に五ノ目交じり、大乱れ刃等があり、乱れ刃の場合、焼幅に広狭があり、角張った五ノ目が大きく乱れ、処々に尖り刃が交じり、前述の太い砂流し(芋蔓)と相俟って、美濃志津風相州伝の特徴を色濃く再現したものです。
 帽子は、横手付近から強く掃き掛けて、乱れ込みあるいは湾れて火焔風になるものが多く、稀に直に丸く返るものがあります。
 彫物は棒樋があるくらいで、他の彫物はみません。
 茎は、受領前は先細って入山形、受領後は先が少し丸みを持つ栗尻風のものがあります。
 ヤスリ目は、はじめ深い筋違いで次第に浅くなり、最終的には浅い勝手下がりになるようです。
 銘文は刀剣諸書に記述されているように、「主水正正清」に、ハバキ下に一葉葵文を切るのが一般的のようです。

 それでは、今回はこの辺で失礼します。

                          竹   屋   主   人

私の見方

K氏
姿から新刀、荒目の沸えに長い金筋、薩摩相州伝でしょうか。
匂口冴える点とヒントから「主水正正清」と見ました。

Y氏
鑑定刀は焼き出しと帽子から新刀と観て、沸出来、金筋から薩摩刀として 銘 主水正正清 とします。

S氏
小板目が詰み、荒沸がつき冴えた出来。茎上に紋が付くヒントから正清に行き着きました。

M氏
ヒントから新刀・新々刀。強い沸と金筋などから薩摩刀。
ヒントから主水正正清・一平安代。刃紋、帽子の出来や茎などから主水正正清としました。

今回は、素晴らしい所見ばかりで解説者としては嬉しい限りです。