2011年6月1日 第3回出題「備前国住長船五郎左衛門尉清光」


 平成23年6月の回答は、備前国住長船五郎左衛門尉清光でした。

 一ノ札「当」は若干名で、他では同じ末備前でも直刃ということから、時代を少々上げた忠光などの札が見られ、また、刃長の長さから逆に時代を下げて、新刀初期の直刃の作を得意とする刀工への入札がありました。

 一般的に末備前といえば、刃長が二尺一寸前後で、身幅尋常で重ねがやや厚く、平肉がついて、先反りの付いた打刀風の姿で、茎(なかご)の短いものと認識されています。

 ここで一応の目安として、室町期の備前の太刀及び、打刀の長さについて説明しますと、応永頃は二尺四寸前後、永享頃は二尺三寸前後、寛正頃で二尺二寸、そして文明〜明応〜永正〜大永頃には二尺前後の打刀が流行し、天文頃になると二尺三寸前後と再び刃長が伸びはじめ、元亀〜天正頃は更に刃長が長くなり、二尺四寸前後と次の慶長新刀へと移行する前兆が伺えます。

 この刃長の目安を基準に鑑定して行きますと、忠光や勝光、宗光などは文明〜明応頃に活躍した刀工なので、刃長の長さは最も短い寸法となり、今回の問題に対して、彼らへの入札は一考を要すると思います。
 但し例外も存在しますので、その辺は柔軟に対処して頂きたいと思料します。

 今回の清光は同銘数代続いて、祐定一門同様に末備前を代表する刀工集団として栄えました。
 清光と銘ずる刀工中、最も古い年紀を有するものに、南北朝期の貞治四年紀のものがあります。
 研究者によれば、清光は小反派の刀工で、その後、末備前まで代々続いたとしています。

 清光銘が最も多くなるのは永正以降で、特に天文から天正にかけては、三十人ほどの清光が存在していたようです。
 清光一門は、室町期に早くから山名氏に仕え、次いで、備前の浦上氏に従って宇喜田直家に属し、その後、毛利元就に仕えて、芸州山城に駐槌したと言われています。

 五郎左衛門尉と孫右衛門尉の二人は、清光のなかでも双璧とされ、その技量の高さから、末備前愛好家の垂涎となっています。
 二人は同世代の刀工と思われがちですが、五郎左衛門尉は天文年間を中心に、孫右衛門尉は元亀〜天正頃に活躍した刀工です。
 五郎左衛門尉には切先の伸びるものは少なく、刃文は直刃以外に腰の開いた五ノ目や複式五ノ目、あるいは、皆焼刃等多彩で、地鉄の鍛えも清光のなかでは一番上手であります。
 孫右衛門尉の場合ですと切先が延び心となり、平肉が付き過ぎてボテボテとした感じのものが多く見られます。
 これは、次の慶長新刀移行への過渡的な姿なのかもしれません。

 清光一門の作には直刃が多いことは周知のとおりですが、この直刃の刃文を焼く場合は必ずと言って良い程、鎬を高くして鎬地を薄くし、総体的に重ねを厚く造り込むのを手癖としています。
 清光一門の直刃の作品の特徴は、匂口が締まり、小五ノ目が交じる独特の刃文で、匂崩れを伴い同時に染み心あり、「よだれ清光」と呼ばれる鑑定用語まであります。

 今回の鑑定刀の五郎左衛門尉には天文二十四年紀があり、彼の後期作と思われますが、前述した「刃長の長さ」と問題文ヒントの「普通は直刃が多い」更には「やや先反り」があることを勘案すれば、末備前の中でも五郎左衛門尉清光と個銘を絞り込むことも可能かと思われます。

 今回は少々難問だったようです。それではこの辺で失礼します。

                          竹  屋  主  人

私の見方

H氏
寸が片手打ちの長さからだいぶ延びてきているので末備前でも永禄以降。直刃が多いとなると清光。

O氏
複式互の目の刃文から末備前と見えます。普段直刃が多いというので、清光と思います。


お二方とも、さすがですね。時代と位列を正しく掴んでいると思います。