2011年7月1日 第4回出題「越中守正俊」


 今回の答えは、「越中守正俊」でした。

 今回は、一の札で、「和泉守国貞」の入札が多くありまして、少々難問であったようです。

 末古刀最末期の文禄頃に、関鍛冶で志津三郎兼氏九世の孫と称する関の兼道が、京都西洞院に移住し、三品一派を興し、その長男「伊賀守金道」、次男「来金道」、三男「丹波守吉道」、四男「越中守正俊」が有名で、皆技量上手であることはご存じのとおりであります。
 朝廷から、二代目「伊賀守金道」が、「日本鍛冶宗匠」の肩書を与えられ、朝廷への受領斡旋をしていました。
 金道家自体が受領許可をすることはなく、勧修寺、仁和寺、大覚寺の三門跡に、永宣旨という受領許可の特権が与えられていました。
 受領についての詳しい事は、後日時間があるときにでもお話しましょう。
 四兄弟は、「京五鍛冶」に列せられ、禁裏御用を勤め、毎年正月には小刀十五本を朝廷に献上していました。

 この三品一派の特徴は帽子にあって、いわゆる、「三品帽子」と呼ばれ、横手上で大きく湾れて先が尖るのを特徴としますが、他国でもこの帽子を焼く刀工がおり、例えば尾張の飛騨守氏房、加賀の兼若などがそれであります。

 今回の、「越中守正俊」は同銘四代あると言われ、現存する作品は初代と二代のものが多いようです。
 三代、四代は技量が振るわず金道家に居候し、作品は稀有であると資料にあります。
 初代正俊は慶長二年九月に、「越中守」を受領し、四兄弟中一番の技量上手といわれ、作域も広く沸匂い豊富で、「志津」に見えるものや、「和泉守ノ定」を写したようなものがあります。
 直刃の作品は少ないが、匂い口が締って小足が入り、一見、「青江物」に見間違うような作品もあります。
 地鉄は板目がよく詰み、柾心も強くなり、中に完全な柾目鍛えの作品が見られます。
 帽子は先述の、「三品帽子」が顕著であり、鑑定の一助となります。
 茎は先が細く浅い栗尻となり、鑢目はふつうは筋違い、晩年に切りへと変化します。
 切銘は、「越中守正俊」、「越中守藤原正俊」が多く、「藤原正俊」二字で、「正俊」銘のものも見受けられます。
 初代正俊の高弟に、大和保昌貞宗の末裔と称する仙台国包がいますことを記して、今回はこの辺で失礼させていただきます。

                              竹  屋  主  人

 私の見方

O氏
 三品帽子から三品一門と思うが、国路も考えられるかな?
 しかし、5字銘とあるし、刃文から越中守正俊とします。

Y氏
 鑑定刀は帽子、地刃の様子から、三品一門と観て、銘 越中守正俊 とします。