2011年8月1日 第5回出題「国分寺助国」


 今回の答えは、「国分寺助国」でした。

 鑑定鑑賞会や紙上鑑定でもあまりお目に掛かることのない刀工ということなので「当札」は皆無でした。
 ヒントで、備前ではないこと及び鑢目大筋違から、隣国の備中青江への入札が大多数でした。
 本来ならば青江への入札は「同然」ではなく「通り」ですが、今回は問題の難易度を考慮して山陽道の同時代の刀工への入札に対しては、「同然」とお答えしました。

 国分寺助国は、鎌倉時代後期の元徳頃の刀工で、「古今銘尽」などでは助国を法華鍛冶一類の流祖として、三原物とは別の備後国葦田郡物なる系図を掲載しており、室町時代の応永(1394年)頃、備後の一乗が法華と銘を切った事から、その一派を法華又は法華三原と呼んでいます。
 また、同銘が、嘉吉、文明、永正にもあり、多いに繁栄したものと思われます。
助国については、備前の福岡一文字延真系の助村の子とする説もあり、「古今銘尽大全」には備前国分寺同人、備後安那郡東条住とあって、備前の助国が備後の地に移住したように捉えることができます。

 彼の作品の銘文には、「助国」・「助国作」・「備州国分寺住人助国(光山押形所載)」などがあり、古剣書にはこの他に、「備後国安那郡東条助国(光山押形所載)」・「備後国安那郡東条住右近助国作」・「備後国安那郡東秦助国」などの記述が見えます。
 「安那郡」は、備中国に極めて近い場所でもあります。
 
 柴田先生の解説通り、鎌倉時代より南北朝期にかけて備州住と切る場合は、ほとんどが備後国を意味するとありますから、これらを勘案すると助国の備前福岡一文字鍛冶出身説には一考を要すると思います。

 更に付加えれば、この安那郡は備後の国分寺及び国分尼寺があった所で、備前国分寺と記す古剣書は、備州国分寺の誤記ではないかとする意見もあります。
 古文書等には、誤字や当て字が平然と使用されている場合があり、また後世に書き写され正確性を欠くものがあり、これらを判読するには特別な読解力を要することから、誤記説もかなり頷ける意見であると思います。

 助国の作風には、古三原に近以した作品や、備前気質を示す刃文のよく働いた作品の二様があり、また、最近の研究では、助国は古三原正家の親とも云われ、古三原の始祖とする説が浮上していますが、この研究成果の是非については、文献史学を含めてより深化した研究論文が出てくることを期待します。
 また、重要文化財指定品で元亨年紀のある「備州住高光作」と銘のある太刀がありますが、これなどは備前の影響を表した作品で、識者の間では助国の弟子とも古三原一門とも言われています。

 今回の入札で、問題文に、「鑢目大筋違い」及びヒントに「備前ではありません、山陽道です。」の記述により、青江諸工への(今回は、鎌倉中期以降の備中青江の作品をいう)」札が圧倒的でしたが、これだけでは鑑定の決め手にはなりません。
 では、「備前ではありません」の記述がなければどうでしょうか?
 「柾目肌」についての記述も見られることから、当然、長船の元重あたりの札があってもおかしくないと思われます。
 ここで、青江らしさを大筋違いの鑢目以外から探してみると、問題文には青江特有の縮緬肌や鯰肌の記述もなく、掲載の押形から帽子も青江帽子ではありませんし、映りも備前風の乱れ映りで、青江の映りとは少々違いますし、刃文もよく締った冴えた匂口の逆丁子でもありません。
 また、鎌倉中期以降の青江物は二字銘が稀少で、長銘が主流となりますので、これらを整理すると、青江諸工への入札は難しいと判断しますが如何でしょうか。

 どちらかといえば今回の入札では、古三原などへの入札が良い選択だと考えます。

 それでは今回はこの辺で失礼します。

                           竹   屋   主   人