2011年11月2日 第8回出題「相州住広次作定吉」


 今回の答えは、「相州住広次作定吉」でした。

 今回の解説は、非常に苦慮しました。
 末相州ということで、資料や文献は豊富にあるものと高を括っていましたがいざ調べて見ると、これがなかなか見当りません。
 それにも拘わらず今回の入札で、ずばり「当」の方が2名ほどおられました。
 お二方の見識の高さに、感服いたします。

 鎌倉鍛冶の系譜を簡単に説明しますと、新藤五国光−行光−正宗(五郎入道)−貞宗(彦四郎)、秋広(九郎三郎)、広光(九郎次郎)というように名跡を次ぐことになりますが、広次は通字の示すとおり広光の系統の刀工と思われ、鍛刀の師は広光の弟子で吉広(大井川九郎次郎)といわれています。
 広光には同銘数代あると言われていますが、この吉広が何代目の広光に師事したかは判然としません。
 広次の師匠である吉広について、少しばかり面白い資料があるので紹介します。
 吉広は、元々は大和千手院の刀工で、南北朝期の康安頃に鎌倉に移住し、広光の弟子になったということです。
 吉広の大和在国中に作刀したとされるものが、「埋忠押形」に書き下し銘で、「大和国千手院住源吉広・暦応二二年辛巳年十月十八日」という作品が所載されています。

 鑑定の掟のようなものに、「大和千手院」と鑑して「否」なら「相州上位物」へ、と言われるほど、金筋・砂流しが派手に表現されている作品が多いのも頷けます。

 さて、今回の広次ですが、柴田先生の解説のとおり市川長兵衛と称し、同名数代あることが知られています。
 末相州鍛冶は、室町期に鎌倉鍛冶と小田原鍛冶に大きく2系統に分かれて繁栄しますが、広次は鎌倉鍛冶の系統に属し、三浦半島から鎌倉に勢力をもつ三浦氏の抱え工とされ、永正十三年に領主である三浦道寸一族が、北条早雲によって滅亡すると、広次一門は伝手を頼って国内外に避難したと思われます。
 そのうちの一人が若狭の冬広であり、前述の吉広の末裔で二代広次門とされています。
 広次も三代以降、天文年紀のあるものは、特徴のある先細りの茎に変化していることなどから、小田原鍛冶に吸収されたものと思われます。

 今回の札で、「平安城長吉」の札がありました。
 刀姿、刃文や特に茎の形状などから、村正、島田、末相州の東海道諸工の技術交流などの関連性が指摘されています。
 鑑定上、村正と平安城長吉は同然とされていますので、今回の出題に対しては「否」ですが、長吉への入札は頷けるようにも感じます。

 広次の作風ですが、末相州物は個銘を判別できる程の特徴に乏しく、今回の入札では末相州物の入札に対しては全て「当」としました。
 作風の詳細につきましては、第1クール4回目の相州広正を参照して頂ければ幸甚であります。
 それでは今回は、この辺で失礼します。

  
                            竹   屋   主   人
 私の見方

 H氏
 片手打ちの長さに先反りとなると、室町中期頃永正から天文にかけてとなります。
 映りも白けもないようなので備前や美濃を外し、三つ棟、濃厚な彫、小沸出来、地景入るので相州物。
 綱広、康春は時期的に少しあとになるので、広正か広次。年紀がめずらしいとなると広次。

 O氏
 片手打ちの体配、先反りから室町後期。殆ど裏銘のある備前と白けのある末関を除外すると、濃密な彫りから末相州が考えられるが、個名が難しい。年季が稀有というヒントから広次とします。