2012年4月1日 第1回出題「勝村徳勝」


 今回の答えは、幕末水戸の刀工「勝村徳勝」でした。
 大半の方が一の札で「徳勝」へ、少数派で仙台「国包」への札がありました。

 勝村徳勝は名を勝村彦六といい、文化六年(1809年)に水戸藩士の子として生まれ、その出生地は江戸とも水戸とも言われています。
 鍛刀の技術をはじめ関口徳宗に師事し、初銘を「徳一」と切り、後に水戸藩工に推挙されて、安政四年(1857)に江戸小石川(現在の後楽園)にある水戸藩邸に移ります。
 江戸出府後は、石堂運寿是一や細川正義の指導を受け、鍛刀の技を磨きました。

 特に、石堂運寿是一の影響を強く受けたと思われ、ある時期以降、ほとんどの作品を柾目肌で鍛えるようになります。
 作風は鎬筋高く、鎬幅広い造込みに、柾目鍛えに地沸厚くつき、直刃を基調に沸がよくつき、刃縁ほつれ、砂流しが掛かり、帽子は盛んに掃きかけるものが多く、まさに、大和伝の特徴を網羅した作刀を行っています。
 徳勝の作品は、当時から非常に人気があり、現存品も多いようです。
 また、作刀控帳も残されています。
 明治五年二月に、行年六十四歳で没しています。

 水戸藩では、実戦刀を重んじたため、藩への刀剣類の納入基準が高く、信州松代藩の荒試しと共に、水戸の荒試しという強度試験は、有名な話しであります。
 強度試験には、「棒試し」「角試し」「水試し」などがあり、特に、「水試し」は、「水圧(みずへし)」と呼ばれ、人が胸まで水に浸かり、刀の平地面を水面に叩きつけたり、石垣に刀をクサビの様に指し込んで、その上に乗ったりするなど、想像を絶する耐久試験が行われたようです。
 その結果として、より強靭性を求めた鍛法はなんぞや、ということで柾目鍛えが採用されたと思われます。
 果たしてそこまでの性能試験が必要かというと、私は、「否」であります。

 徳勝は、水戸家九代藩主、徳川斉昭(水戸烈公、官位:従三位・左近衛権中将兼左衛門督、参議、権中納言)の鍛刀のお相手を務めたことでもよく知られ、当時の水戸藩の気質、とりわけ尊王攘夷の機運の強い藩士の指料として愛用され、かの有名な桜田門外の変で、井伊直弼を襲撃した時に使用された刀として有名であります。
 それでは今回はこの辺で失礼します。

                              竹  屋  主  人

 私の見かた

 法城寺氏
 大和伝系の作柄、柾目となると保昌・国包・市毛系が該当。古刀・新刀・新々刀に分かれる中、これほどの健  全な体配となると新々刀とみるべき。切りの鑢目、茎尻の形状、該当するのは市毛系に学んだ刀工の中で一  派を成した徳勝となります。

 よっちゃん氏
 鑑定刀は柾目肌で姿から新刀、新々刀と観て、国包、南紀、左行秀清人、徳勝が浮かびますが鑢目、銘の位 置から判断し 銘 勝村徳勝とします。