2012年9月1日 第6回出題「忠広」


 今回は二字銘の、「忠広」銘(肥前忠吉初代)でした。
 肥前刀としての特徴を顕著に現した鑑定刀であり、常連の皆さんには少し物足りなさを感じたことと思います。
 鑑定の要訣については、柴田先生の詳しい解説で十分ご理解を得られたと思います。

 初代忠吉は、京の堀川国広と並ぶ新刀双璧で、愛刀家の間では人気のある刀工です。元亀3年に竜造寺家の抱え工であった橋本道弘の子として佐賀郡長瀬村に生まれ、本名を橋本新左衛門という。
 天正十二年三月に勃発した、肥前国を中心に九州北部を支配下とする龍造寺隆信と、九州南部から北に勢力拡大を企図する島津義久との九州の覇権を決する戦い、いわゆる、「島原の戦い」で、忠吉の祖父である盛弘は戦死、父も同時期に病死し、時に十三歳の忠吉は、肥後国伊倉の刀工、「同田貫善兵衛(清国)」に預けられ、鍛刀の基礎を学んだといわれています。

 慶長元年(1596年)、忠吉二十五歳の時、刀工としての技量を高めるため京に上り、かの有名な、埋忠明欽・明珍」親子に弟子入りをします。
 慶長三年(1598年)に修業を終えて肥前国佐賀に戻り、藩主、「鍋島勝茂」の知遇を得て藩工となり、切米二十石と屋敷地を拝領、これを機に前述の長瀬村に残った親類縁者をこの屋敷に呼び寄せ工房を運営し、いよいよ鍛冶職に精進したといわれています。
 鑑定本で脇肥前などと言われる刀工は、この時移住した人たちの事を指すもので、本家に負けず劣らずの名工を輩出しているのは周知のとおりです。

 元和十年二月二十八日、朝廷より、「武蔵大掾」と「藤原姓」を賜り、それまでの、「源姓」から「藤原姓」に改める。
 寛永九年八月十五日に没、享年には六十一歳、六十六歳、六十八歳など諸説ありますが、直系の御子孫は、享年を六十一歳としているとのこと。

 最後に肥前刀には次の様な特徴があり、これが鑑定の要訣とされています。
 その一つは、刀の銘が佩き表に切銘することなどがありますが、更に奥深いものに、茎の肉置きにありますが、これをご説明申し上げると、紙面が足りなくなりますので割愛させて頂きます。


 それでは 今回はこの辺で失礼します。

                                      竹 屋 主 人


 私の見方

 よっちゃん氏
 鑑定刀は先反り気味、重ねの状態から慶長、元和の慶元新刀と観て肌目、鑢目、刃文の谷に沸匂が凝ってい るところから肥前刀として 銘 忠廣 とします。

 まるひ氏
 小板目のよくつんだ肌、ヒントから肥前の小糠肌。三鈷剣の柄が菊花になっているところからなどから忠吉でな く忠広としました。

 ※最近の入札所見は、皆さん素晴らしいです。
 特に、同人の前期作と後期作を見極めらる鑑識は高く評価されます。
 今後も、冷めた刀剣界を共に盛り上げましょう。(竹屋談)