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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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京都の鍛冶神社まつり   野崎 準 : 2018/08/05(Sun) 18:08 No.653
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10  春に京都市東山区三条粟田口の粟田神社に行った時、「8月第一日曜日に鍛冶神社祭」と聞きましたので、今日8月5日に拝観してきました。粟田神社参道脇の小祠です。
 
 境内を改修したとかで小さな社殿の周りに欧陽修『日本刀歌』や水戸烈公の漢詩を刻んだ石柱、明治天皇の歌碑などが玉砂利を敷いた中にきちんと並べられていましたが、前に形だけ残っていた井戸の石積がなくなっていました。刀工の遺跡は清冽な水の井戸が根拠という所が多いのに。

 宮司様と巫女さん二人で参列者は氏子10人ほど。修祓、祝詞奏上、謡(多分『小鍛冶』)奉納、玉串奉献と工事関係者表彰で終わりでした。京都だから刀匠の実演ぐらいあるかなと思っていたのですが。

 氏子の他婦人見学者30人ほどは刀剣女子だったのでしょうか。三条小鍛冶宗近、粟田口藤四郎吉光の工房と伝え二刀匠をまつっているのだから刀剣愛好家の為に玉鋼くらい展示されては、とも思いました。
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インドの隕鉄ナイフ   野崎 準 : 2018/07/29(Sun) 19:50 No.652
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8  ネットで隕石刀を検索していたら、先年再分析を受けたエジプト・ツタンカーメン王墓の短剣、吉原刀匠の「天鉄刀」と共に「米国スミソニアン博物館蔵のインドの隕鉄刀」が出てきました。

 16-19世紀にインドを支配していたイスラム王朝、ムガル帝国のジャーハンギール帝(在位1605-27我が国慶長〜寛永年間)の年代記に、落ちてきた隕石で造ったと記録されているナイフだそうです。

 従来の化学分析では隕鉄ではない、とされていたのが近年蛍光X線分析法で再分析したところ隕鉄製と確認されたとあります。

 オクタヘドライトだそうですからニッケル10%前後含有の鉄で、高炭素の玉鋼や現代の低合金刃物鋼のように「折れず曲がらずよく切れる」刃物を造るのは無理と思いますが、年代記には刀より鋭利、とあるそうです。画像には杢目のような地紋が見えました。
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深堀事件と日本刀   野崎 準 : 2018/06/19(Tue) 21:14 No.651
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11  江戸時代の元禄13年12月(西暦では1701年1月)に長崎で、長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士が小者の喧嘩が元で争いになり、多数の死者を出した「深堀事件」或いは「長崎喧嘩」と言う騒動がありました。

 小者の争いから会所の者が深堀の屋敷に乱入して暴行、負傷した深堀三右衛門が紫原武右衛門ら12人で長崎会所に討ち入り、暴行を指揮していた高木彦右衛門を討ち取って首を取り、責任を取って直ちに切腹して果てた、という事件です。幕府は双方の関係者十数人に切腹、斬首、流罪を命じて事件は収束します。

 この話が『日本刀及日本趣味』誌に「刀剣余話・武士道叢談」として紹介されていました。雑誌の性格上日本刀での斬り合いが中心でしたが、著者は副島蒼海(種臣)の説として、元禄15年の赤穂浪士の吉良邸討ち入りはこの事件に感憤興起(かんぶんきょうき)して起きたとし、最後に『葉隠』の、赤穂浪士も延引せず直ちに討ち入りし、本懐を遂げたら泉岳寺で切腹していれば完璧だったのにという批評を載せていました。

 大阪の陣から85年ですがまだ武士には尚武の気構えが残っていたのでしょう。

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古都の古書店にて   野ア 準 : 2018/05/26(Sat) 07:26 No.650
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7  京都寺町の古書店で古雑誌の中から『日本刀及び日本趣味』誌、昭和12年(1937)3月号を見つけました。

 考古学の記事が読みたくて買ったのですが、当時タタラ製鉄は不採算で閉山してしまった事をあげ、「日本刀は砂鉄から木炭で製錬した鋼がないと作れない、林(銑十郎、陸軍出身)総理にはご英断を以て日本鉄の製錬を復活していただきたい」とか、「本多(光太郎)博士は化学分析の進展で将来は正宗の名刀の復元も可能、と申されたが刀匠が精魂を込めた日本精神は化学では解明不可能と思うが如何」などとありました。日本紀元2600年(昭和15年)を前に日本精神高揚が盛んだった時です。

 砂鉄製錬は軍刀生産のため昭和8年に「靖国タタラ」が復活し、戦後は日刀保タタラが継続していますが、分析不可能な日本精神の方はどうなっているのでしょう。

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志士の漢詩   野ア 準 : 2018/04/28(Sat) 19:34 No.648
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8 従軍作 藤田信(小四郎)
 憂時慨世真無用。嘯月吟花却有情。
 営外今朝人若問。将軍酔臥未全醒。

 時ヲ憂ヒ世を慨(なげ)ク真ニ無用。月ニ嘯(うそぶ)キ花ニ吟ズ却テ情アリ。
 営外今朝 人若シ問ハバ。将軍ハ酔臥シテ未ダ全ク覚メズト。
【評釈】従軍にあっては時を憂い世を概するは無用。むしろ花月に吟詠するが情けあり。人に聞かれたら将軍は酔って未だ覚めずと答えよ、と。自家の豪懐を述べたるなり。(『和漢名詩類選評釈』)

 豪快な詩ですが、藤田小四郎は藤田東湖の子。武田耕雲斎らと水戸天狗党の乱を起こし慶応元年捕縛され処刑。享年25歳。
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春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/03/23(Fri) 18:41 No.646
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8  今年は3月21日春分の日、春彼岸の中日に東京に雪が降りました。

 3月中旬の雪は珍しいのですが1860年には3月24日に雪が降っています。旧暦でいうと万延元年三月三日。「天誅!と烈士が言ったから三月三日は桜田記念日」の桜田門外の変があった日です。前夜からの春の淡雪で事件当日は曇り、映画・演劇のような「落花紛々雪紛々」ではなかったらしいですが。

 彦根藩はこの時暗殺された大老井伊直弼以外に警護の武士は即死4人、重傷のち死亡4人、負傷し引責自決となったもの、逃げて彦根藩に処刑されたものまで多数の死者、攻撃側も即死1人、負傷して自決、自首して斬罪など18人のうち明治まで存命できたのは2人だけと記録されています。

 この事件で徳川幕府の親衛隊、戦闘力第一と称していた彦根井伊家は藩主を暗殺されて、威信は地に落ちます。そしてそれまで武闘を控えていた勤王・佐幕の争いが凄惨な幕末の死闘に至る発火点となりました。

 注意したいのは作戦開始の合図に井伊大老の駕籠がピストルで狙撃され、それがほぼ致命傷だったのにその後は双方刀での斬り合い、大老は斬首、と事件の主要武器は刀だったことです。近代的な洋式銃による戦闘になるのは戊辰戦争の頃までかかった様です。
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[→646] Re: 春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/04/01(Sun) 19:54 No.647
11 走筆作詩 黒沢勝算
狂ト呼ビ賊ト呼ブ、他ノ評スルニ任ス。幾歳ノ妖雲、一旦晴ル。
正ニ是レ桜花ノ好時節。桜田門外、血桜ノ如シ。

 襲撃犯の一人黒沢忠三郎の漢詩。最初に大老をピストルで狙撃した人物と言われています。負傷して数藩の預かりとなり同年七月に病死。簡野道明『和漢名詩類選評釈』(大正三年)所収。簡野氏は
「詩としては伝うるに足らざれどもその精神気迫の自ら二十八字に躍出せるを取る」としておられます。

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Re: 春雪の桜田門   田舎侍 : 2018/05/03(Thu) 02:18 No.649
1 いつも楽しく拝見しています。
数年前のニュースで、どこか忘れましたが地方の関所の古文書を調べていた中で・・・不審者として取り調べた者の中に彦根藩の人足だった者がいて、調書には 「その者井伊直弼襲撃の列におり平民の人足だったから追放された」との事。
「隊列にいた武士は一族郎党親子老人にいたるまで全員死罪になったと供述した」という古文書記録が発見されたという「ニュースを見ました。

武士は大変ですね。

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『明治新刻国史略』の抜刀隊   野ア 準 : 2018/02/26(Mon) 19:23 No.645
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11  前記『明治新刻国史略』の西南の役、明治十年(1877)三月二十日の記事に:

「田原坂ヲ抜ク。・・・田原ノ賊、険ニ拠リテ七塁ヲ築キ我ガ軍ヲ伏撃ス。砲弾霰ノ如シ。陸軍大佐福原和勝、少佐吉松秀枝等奮戦シテ之ニ死ス。是ニ至リテ近衛歩兵ニ東京鎮台ノ兵ヲ合セ、更ニ巡査若干名ヲ以テ抜刀隊ト為シ此ヲ軍後ニ置ク。各銃槍ヲ以テ雨ヲ衝キ谷ヲ渉リ二俣ニ向フ。二股ハ田原ノ間道也。賊亦日ヲ待テ一戦ヲ欲シ決別ノ宴ヲ張ル。宴ノ未ダ酣(たけなわ)ナラザルニ我ガ兵既ニ迫リ、吶喊(とっかん)突入ス。縦横ニ刺殺シ賊軍大ニ乱レ銃ヲ棄テ走ル。我兵追撃シ之ヲ鏖(みなごろし)ニス。田原ノ賊、風ヲ望ミテ壊走ス」。

「♪維新このかた廃れたる日本刀の今更に、また世に出づる身の誉れ」・・・の警視庁抜刀隊が一行だけ出てきました。一般には応召兵では薩摩氏族の抜刀突撃におびえる、と警察官になっていた旧賊軍の氏族が、薩摩への私怨も果たそうと参加したように言われていますが、実際の隊員は政府軍側の薩摩氏族が中心だったようです。
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京都粟田口の刀工遺跡   野ア 準 : 2018/02/19(Mon) 19:18 No.644
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8 「粟田口・古跡

○鍛冶ケ池 良恩寺域外東北ニアリ。僅ニ四坪ノ小池残ル、則チ乃ナリ。古老是ヲ種ガシノ池ト伝ル。因ニ云フ。小鍛冶鋳盤石、小鍛冶ケ井戸ハ知恩院地内ニアリ。合鎚稲荷社ハ粟田神社鳥居ノ地ニアリシガ【今下京区中ノ町ニ属ス】。

○鍛冶宗近の址 (粟田口)字鍛冶。粟田神社華表(鳥居)ノ北ニアリト【元竹林今宅地】。宗近、粟田口藤四郎ト称ス、山城国ノ人。刀匠ノ名人タルコト世ノ知ルトコロナリ・長和二年没ス、年七十七。

○鍛冶吉光ノ宅址。字鍛冶ノ西南ニアリト。或ハ云フ宗近吉光同地居住セリトモ。鍛冶藤四郎吉光。左兵衛尉国吉ノ子也。宗近ニ亜(つ)グ名匠ナリ。正応四年没ス。年六十三」。


 明治時代に糸物商の傍ら郷土史・考古学・有職故実の研究で知られた碓井小三郎(1865-1928)が表わした大著『京都坊目志』に見える三条小鍛冶宗近と粟田口吉光関係遺跡の解説です。別に宗近や吉光一派の略系図も載せていますが、三条小鍛冶と粟田口鍛冶は時代が違うのに混同している所があります。現代京都の観光案内や遺跡見学記にも両者を混同している記事があるのですが、この本を無批判に引用した為でしょう。
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佐川官兵衛の刀   野ア 準 : 2018/01/30(Tue) 10:02 No.643
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11  「初テ官軍城下ニ入ル也。賊ノ不意ニ出、勿勿(ぶつぶつ)トシテ糧ヲ儲スル閑ナシ。佐川官兵衛精兵千許ヲ卒テ戦ヲ決シ出ルニ臨ミ、(松平)容保之ニ正宗ノ刀ヲ賜ヒ又城門マデ之ヲ送ル。官兵衛感激シ涙ヲ揮ヒテ辞訣ス」(『明治新訂国史略』第七巻「今上天皇」)

 幕末に愛読された『国史略』を石村貞一が補足した明治新刻版の会津戦争の一節です。すでに近代の銃砲撃の戦場で名刀を贈る、というのが面白く感じました。

『明治新訂国史略』第七巻(明治十三年発行)は嘉永三年の明治天皇践祚から明治十年の西南戦争終結までを納め、前半は大政奉還から戊辰戦争、後半は明治初期の政治状況、西南戦争と論功行賞、明治十二年八月の両陛下上野公園臨幸までを漢文体で記録しています。幕末明治を生きた人による年代記ですので迫力があります。
佐川官兵衛はおなじみ会津藩の英傑で、鳥羽伏見の戦いから会津戦争まで活躍、明治には警視庁に任官し西南戦争の警視隊指揮官として戦死した人です。

 本書は西南戦争の記事が詳細な割に官兵衛の戦死にはふれていません。この名刀はその後どのような運命を辿ったのでしょうか。官兵衛を扱った小説では戦死の時に佩用していたとありますが。
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自古風雲向北愁   野ア 準 : 2018/01/01(Mon) 09:57 No.640
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10 新年おめでとうございます。

 有感        副島種臣
金華松島奥東頭。自古風雲向北愁。
日本中央碑字在。如今靺鞨属何州。

 明治の外交官副島種臣(1828-1905)の作。日清日露戦争前後の風雲急を告げる中での宮城県多賀城市にある現重文「多賀城碑」を詠じた漢詩です。

 金華、松島、奥東の頭(とう)。古(いにしへ)より風雲、北に向かって愁ふ。
 日本中央の碑字あり。如今(ただいま)靺鞨、何州に属するぞ。

 「日本中央碑」とは坂上田村麻呂が蝦夷を鎮圧後、奥州に「日本中央」と刻んだ碑を立てた「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と言う歌枕の伝承に基づき、碑文に「靺鞨国界を去ること三千里」とある靺鞨(現ロシア沿海州)は今どこの国に属するか、と祖国の将来を案じています。

 江戸時代に多賀城の碑が知られると、東北開拓の中心地陸奥国府・鎮守府の地にある奈良時代の碑と言うので、この碑が「壺の碑」だとされ、芭蕉の『奥の細道』にも記録されています。

 明治になると「歌枕の壺の碑は田村麻呂の活躍した平安初期のもので多賀城碑はそれより古い、碑文に誤りがある・・・」などと、歌枕の碑と違う、のみならず偽作説まで出たのですが、この「靺鞨国」も「碑の立てられた当時は既に滅び渤海国となっていた」、と偽作説の根拠になっていました。

 今も続く北からの国難、日本は乗り切ることができるのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   花散里 : 2018/01/01(Mon) 10:06 No.641
1 明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

「北からの国難」何としても乗り切ってもらわないと困りますが、果たしていろいろな観点からの有効な手段はあるのでしょうか。
少なくとも現代よりは腰の据わった明治の日本人であったら、どのような考えをもったのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   真改 : 2018/01/01(Mon) 13:58 No.642
1 明けまして おめでとうございます。

本年も よろしくお願い致します。
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