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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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古都の古書店にて   野ア 準 : 2018/05/26(Sat) 07:26 No.650
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7  京都寺町の古書店で古雑誌の中から『日本刀及び日本趣味』誌、昭和12年(1937)3月号を見つけました。

 考古学の記事が読みたくて買ったのですが、当時タタラ製鉄は不採算で閉山してしまった事をあげ、「日本刀は砂鉄から木炭で製錬した鋼がないと作れない、林(銑十郎、陸軍出身)総理にはご英断を以て日本鉄の製錬を復活していただきたい」とか、「本多(光太郎)博士は化学分析の進展で将来は正宗の名刀の復元も可能、と申されたが刀匠が精魂を込めた日本精神は化学では解明不可能と思うが如何」などとありました。日本紀元2600年(昭和15年)を前に日本精神高揚が盛んだった時です。

 砂鉄製錬は軍刀生産のため昭和8年に「靖国タタラ」が復活し、戦後は日刀保タタラが継続していますが、分析不可能な日本精神の方はどうなっているのでしょう。

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志士の漢詩   野ア 準 : 2018/04/28(Sat) 19:34 No.648
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8 従軍作 藤田信(小四郎)
 憂時慨世真無用。嘯月吟花却有情。
 営外今朝人若問。将軍酔臥未全醒。

 時ヲ憂ヒ世を慨(なげ)ク真ニ無用。月ニ嘯(うそぶ)キ花ニ吟ズ却テ情アリ。
 営外今朝 人若シ問ハバ。将軍ハ酔臥シテ未ダ全ク覚メズト。
【評釈】従軍にあっては時を憂い世を概するは無用。むしろ花月に吟詠するが情けあり。人に聞かれたら将軍は酔って未だ覚めずと答えよ、と。自家の豪懐を述べたるなり。(『和漢名詩類選評釈』)

 豪快な詩ですが、藤田小四郎は藤田東湖の子。武田耕雲斎らと水戸天狗党の乱を起こし慶応元年捕縛され処刑。享年25歳。
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春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/03/23(Fri) 18:41 No.646
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8  今年は3月21日春分の日、春彼岸の中日に東京に雪が降りました。

 3月中旬の雪は珍しいのですが1860年には3月24日に雪が降っています。旧暦でいうと万延元年三月三日。「天誅!と烈士が言ったから三月三日は桜田記念日」の桜田門外の変があった日です。前夜からの春の淡雪で事件当日は曇り、映画・演劇のような「落花紛々雪紛々」ではなかったらしいですが。

 彦根藩はこの時暗殺された大老井伊直弼以外に警護の武士は即死4人、重傷のち死亡4人、負傷し引責自決となったもの、逃げて彦根藩に処刑されたものまで多数の死者、攻撃側も即死1人、負傷して自決、自首して斬罪など18人のうち明治まで存命できたのは2人だけと記録されています。

 この事件で徳川幕府の親衛隊、戦闘力第一と称していた彦根井伊家は藩主を暗殺されて、威信は地に落ちます。そしてそれまで武闘を控えていた勤王・佐幕の争いが凄惨な幕末の死闘に至る発火点となりました。

 注意したいのは作戦開始の合図に井伊大老の駕籠がピストルで狙撃され、それがほぼ致命傷だったのにその後は双方刀での斬り合い、大老は斬首、と事件の主要武器は刀だったことです。近代的な洋式銃による戦闘になるのは戊辰戦争の頃までかかった様です。
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[→646] Re: 春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/04/01(Sun) 19:54 No.647
11 走筆作詩 黒沢勝算
狂ト呼ビ賊ト呼ブ、他ノ評スルニ任ス。幾歳ノ妖雲、一旦晴ル。
正ニ是レ桜花ノ好時節。桜田門外、血桜ノ如シ。

 襲撃犯の一人黒沢忠三郎の漢詩。最初に大老をピストルで狙撃した人物と言われています。負傷して数藩の預かりとなり同年七月に病死。簡野道明『和漢名詩類選評釈』(大正三年)所収。簡野氏は
「詩としては伝うるに足らざれどもその精神気迫の自ら二十八字に躍出せるを取る」としておられます。

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Re: 春雪の桜田門   田舎侍 : 2018/05/03(Thu) 02:18 No.649
1 いつも楽しく拝見しています。
数年前のニュースで、どこか忘れましたが地方の関所の古文書を調べていた中で・・・不審者として取り調べた者の中に彦根藩の人足だった者がいて、調書には 「その者井伊直弼襲撃の列におり平民の人足だったから追放された」との事。
「隊列にいた武士は一族郎党親子老人にいたるまで全員死罪になったと供述した」という古文書記録が発見されたという「ニュースを見ました。

武士は大変ですね。

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『明治新刻国史略』の抜刀隊   野ア 準 : 2018/02/26(Mon) 19:23 No.645
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11  前記『明治新刻国史略』の西南の役、明治十年(1877)三月二十日の記事に:

「田原坂ヲ抜ク。・・・田原ノ賊、険ニ拠リテ七塁ヲ築キ我ガ軍ヲ伏撃ス。砲弾霰ノ如シ。陸軍大佐福原和勝、少佐吉松秀枝等奮戦シテ之ニ死ス。是ニ至リテ近衛歩兵ニ東京鎮台ノ兵ヲ合セ、更ニ巡査若干名ヲ以テ抜刀隊ト為シ此ヲ軍後ニ置ク。各銃槍ヲ以テ雨ヲ衝キ谷ヲ渉リ二俣ニ向フ。二股ハ田原ノ間道也。賊亦日ヲ待テ一戦ヲ欲シ決別ノ宴ヲ張ル。宴ノ未ダ酣(たけなわ)ナラザルニ我ガ兵既ニ迫リ、吶喊(とっかん)突入ス。縦横ニ刺殺シ賊軍大ニ乱レ銃ヲ棄テ走ル。我兵追撃シ之ヲ鏖(みなごろし)ニス。田原ノ賊、風ヲ望ミテ壊走ス」。

「♪維新このかた廃れたる日本刀の今更に、また世に出づる身の誉れ」・・・の警視庁抜刀隊が一行だけ出てきました。一般には応召兵では薩摩氏族の抜刀突撃におびえる、と警察官になっていた旧賊軍の氏族が、薩摩への私怨も果たそうと参加したように言われていますが、実際の隊員は政府軍側の薩摩氏族が中心だったようです。
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京都粟田口の刀工遺跡   野ア 準 : 2018/02/19(Mon) 19:18 No.644
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8 「粟田口・古跡

○鍛冶ケ池 良恩寺域外東北ニアリ。僅ニ四坪ノ小池残ル、則チ乃ナリ。古老是ヲ種ガシノ池ト伝ル。因ニ云フ。小鍛冶鋳盤石、小鍛冶ケ井戸ハ知恩院地内ニアリ。合鎚稲荷社ハ粟田神社鳥居ノ地ニアリシガ【今下京区中ノ町ニ属ス】。

○鍛冶宗近の址 (粟田口)字鍛冶。粟田神社華表(鳥居)ノ北ニアリト【元竹林今宅地】。宗近、粟田口藤四郎ト称ス、山城国ノ人。刀匠ノ名人タルコト世ノ知ルトコロナリ・長和二年没ス、年七十七。

○鍛冶吉光ノ宅址。字鍛冶ノ西南ニアリト。或ハ云フ宗近吉光同地居住セリトモ。鍛冶藤四郎吉光。左兵衛尉国吉ノ子也。宗近ニ亜(つ)グ名匠ナリ。正応四年没ス。年六十三」。


 明治時代に糸物商の傍ら郷土史・考古学・有職故実の研究で知られた碓井小三郎(1865-1928)が表わした大著『京都坊目志』に見える三条小鍛冶宗近と粟田口吉光関係遺跡の解説です。別に宗近や吉光一派の略系図も載せていますが、三条小鍛冶と粟田口鍛冶は時代が違うのに混同している所があります。現代京都の観光案内や遺跡見学記にも両者を混同している記事があるのですが、この本を無批判に引用した為でしょう。
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佐川官兵衛の刀   野ア 準 : 2018/01/30(Tue) 10:02 No.643
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11  「初テ官軍城下ニ入ル也。賊ノ不意ニ出、勿勿(ぶつぶつ)トシテ糧ヲ儲スル閑ナシ。佐川官兵衛精兵千許ヲ卒テ戦ヲ決シ出ルニ臨ミ、(松平)容保之ニ正宗ノ刀ヲ賜ヒ又城門マデ之ヲ送ル。官兵衛感激シ涙ヲ揮ヒテ辞訣ス」(『明治新訂国史略』第七巻「今上天皇」)

 幕末に愛読された『国史略』を石村貞一が補足した明治新刻版の会津戦争の一節です。すでに近代の銃砲撃の戦場で名刀を贈る、というのが面白く感じました。

『明治新訂国史略』第七巻(明治十三年発行)は嘉永三年の明治天皇践祚から明治十年の西南戦争終結までを納め、前半は大政奉還から戊辰戦争、後半は明治初期の政治状況、西南戦争と論功行賞、明治十二年八月の両陛下上野公園臨幸までを漢文体で記録しています。幕末明治を生きた人による年代記ですので迫力があります。
佐川官兵衛はおなじみ会津藩の英傑で、鳥羽伏見の戦いから会津戦争まで活躍、明治には警視庁に任官し西南戦争の警視隊指揮官として戦死した人です。

 本書は西南戦争の記事が詳細な割に官兵衛の戦死にはふれていません。この名刀はその後どのような運命を辿ったのでしょうか。官兵衛を扱った小説では戦死の時に佩用していたとありますが。
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自古風雲向北愁   野ア 準 : 2018/01/01(Mon) 09:57 No.640
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10 新年おめでとうございます。

 有感        副島種臣
金華松島奥東頭。自古風雲向北愁。
日本中央碑字在。如今靺鞨属何州。

 明治の外交官副島種臣(1828-1905)の作。日清日露戦争前後の風雲急を告げる中での宮城県多賀城市にある現重文「多賀城碑」を詠じた漢詩です。

 金華、松島、奥東の頭(とう)。古(いにしへ)より風雲、北に向かって愁ふ。
 日本中央の碑字あり。如今(ただいま)靺鞨、何州に属するぞ。

 「日本中央碑」とは坂上田村麻呂が蝦夷を鎮圧後、奥州に「日本中央」と刻んだ碑を立てた「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と言う歌枕の伝承に基づき、碑文に「靺鞨国界を去ること三千里」とある靺鞨(現ロシア沿海州)は今どこの国に属するか、と祖国の将来を案じています。

 江戸時代に多賀城の碑が知られると、東北開拓の中心地陸奥国府・鎮守府の地にある奈良時代の碑と言うので、この碑が「壺の碑」だとされ、芭蕉の『奥の細道』にも記録されています。

 明治になると「歌枕の壺の碑は田村麻呂の活躍した平安初期のもので多賀城碑はそれより古い、碑文に誤りがある・・・」などと、歌枕の碑と違う、のみならず偽作説まで出たのですが、この「靺鞨国」も「碑の立てられた当時は既に滅び渤海国となっていた」、と偽作説の根拠になっていました。

 今も続く北からの国難、日本は乗り切ることができるのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   花散里 : 2018/01/01(Mon) 10:06 No.641
1 明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

「北からの国難」何としても乗り切ってもらわないと困りますが、果たしていろいろな観点からの有効な手段はあるのでしょうか。
少なくとも現代よりは腰の据わった明治の日本人であったら、どのような考えをもったのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   真改 : 2018/01/01(Mon) 13:58 No.642
1 明けまして おめでとうございます。

本年も よろしくお願い致します。
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刀を三振もった神   野ア 準 : 2017/12/27(Wed) 21:28 No.636
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8  海の伝説を調べていました。江戸時代の随筆や瓦版に「神社姫という人魚が出現」というのがあります。

 文政年間(1818-1830)に肥前国の海から現れ、「竜宮からの使者の神社姫」と名乗り、疫病の流行を予言し、「我が姿を見た者は悪疫を免れるので、我が絵姿を印刷して配布せよ」と言ったと伝えます。手元の『日本の幻獣図譜』(湯本豪一・東京美術・2016)を見ますと人魚と言うより人面魚で、「尾が三本の剣になっている」とありました。どの瓦版も挿絵も深海魚のリュウグウノツカイに人面を頭に、三本の剣を尾につけた姿です。

 刀剣には基本魔除けの効力があり、妖怪は名刀を恐れますから、刀剣をもつ事で人類の味方、正義の神の使者を表しているのかも知れません。

 念のため魚の図録を見ましたが、カジキの類をswordfish, spearfishといい、太刀魚、秋刀魚は刀のような姿ですが、尾に放射状の三本の剣らしいもののある魚はいませんでした。何を象徴しているのでしょう。

 今年もようやく月一回投稿は維持できました。来年もよろしくお願いします。
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Re: 刀を三振もった神   花散里 : 2017/12/27(Wed) 23:07 No.637
1 野崎先生

本年も興味深い話題をご提供いただき、誠にありがとうございました。

来年もぜひ、これまで以上によろしくお願いいたします。

どうか、良いお年をお迎えください。
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[→637] Re: 刀を三振もった神   野ア 準 : 2017/12/28(Thu) 06:23 No.638
8  「野崎くん」は世間では月刊となっているらしいので・・・。

海の神で三本の剣というとギリシャ神話の海神ポセイドンが三叉の鉾(trident)を持っているのを連想します。南西諸島にはギリシャ神話「オデッセイ」の翻案だと昔から注意されている「百合若大臣」伝説がありますから、海神の使者も三叉の鉾を携帯していたのかも知れません。
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Re: 刀を三振もった神   真改 : 2017/12/28(Thu) 19:40 No.639
1 月一回の投稿。本当にありがとうございます。m(__)m。

私は主宰する立場になりながら、月一回の投稿がなかなかできません。
有難く存じます。

来年も、よろしくお願い申し上げます。
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北越太平記に   野ア 準 : 2017/12/19(Tue) 12:15 No.635
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11  江戸時代初期、滅亡した武田信玄の遺風だとして「武田流軍学」が広まり、『甲陽軍鑑』『信玄全集』などが出版されると上杉関係者も『川中島五度合戦記』などを発表して負けてはいないと反論します。その集成といえる『北越太平記』は上杉謙信・景勝二代の事跡を記録し、川中島の戦いなどの越後側基本文献になっています。ただし合戦の記録は後世の潤色が多く、『甲陽』同様信用のおけないところが多いそうですが。

 その『北越太平記』の中に上杉家臣伝があり、竹俣三河守朝綱の項目に
「朝綱の刀に栄誉の霊剣があり謙信に献上した。備前兼光の銘があり竹俣兼光と号し謙信のお気に入りであった。弘治二年の川中島合戦で信玄の側近に手にした鉄砲もろとも真っ二つにされた遺骸があり甲斐では謙信の竹俣兼光に斬られたのであろうと噂された。
 この刀を都に研ぎに出し、戻ってきた刀を見るとハバキ元の近くにあった小さな穴がなくなっており贋作とすり替えられたと判明した。直ちに石田三成が詮議しすり替えの関係者12人は秀吉の命令で磔になった。
この刀は秀吉に献上され、秀頼に伝わった。大坂落城の時持ち出されたと言うので和泉・河内二国に金三百枚の懸賞を出して探したが見つからなかった」
とし、更に「越後には名剣が多い」として仙台伊達家に伝わった宇佐美長光、本庄繁長に伝わった本庄正宗、米沢吉光なども解説していました。

 刀剣入門書によく出典を示さず引用されているエピソードが多いのですが、これが出典なのでしょうか?これも何かの本の引用なのでしょうか。分かりません。
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蒲生家の宝刀   野ア 準 : 2017/11/30(Thu) 22:19 No.634
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11  京都の民俗を調査された井上頼寿氏の『京都民俗志』(初版昭和8年、東洋文庫で再刊)を読んでいましたら蜈蚣(ムカデ)の民俗例の終わりに
「右京区妙心寺に蔵する棄君の宝剣は元俵藤太秀郷が三上山の蜈蚣を退治した時の鏃であった。それを子孫蒲生氏が宝剣として伝えていたのを氏郷のとき秀吉に献じた。
 さて献じてしまうと同氏は年を逐うて衰えたと『都林泉名所図会』に見える」
 とあります。

 豊臣秀吉の子で幼くして死んだ棄丸君の宝剣は倶利迦羅龍守刀で両刃の短剣、銘は備前福岡一文字派の「尚宗」で、鏃の作り直しという姿ではありません。

 蒲生氏と「秀郷蜈蚣退治の鏃を仕立て直した刀」の伝説は他にもあり。盛岡藩主南部利直の妻於武の方が蒲生家から輿入れの時の守り刀、没後墓に蜈蚣が群れるなど怪異があった、と伝えます。

 京都の町衆は「伝家の宝刀は天下様に頼まれても献上するな。家が傾く」という考えだったのでしょう。名刀の海外流出の話を聞くと思い出します。
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