056225
ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
<24時間以内の記事は を表示します>
<48時間以内の記事は を表示します>
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [投稿ランキング] [キリ番コメント] [新規投稿] [管理用]
[携帯に掲示板アドレスを送信]  [標準/一覧/ツリー]  []
新規投稿
お名前
Eメール
タイトル
メッセージ URLの自動リンク無効
URL
イメージ   [イメージ参照]
暗証キー (英数字で8文字以内)
文字色
クッキー クッキー情報を記録しない
プレビュー 確認する
返 信 返信無効にする

初めのレスから表示中 / 新しいレスから表示
論議抜きの槍   野ア 準 : 2020/09/21(Mon) 20:17 No.691
|
8  日本の武器のうち「槍」は南北朝〜室町時代に歩兵の武器として発達、足軽の長柄の槍と騎馬・徒武者の大身の槍などになります。大身の槍には「日本号」「蜻蛉切」などの名槍もあらわれ、「一番槍」などの名誉もありました。

 西洋でも中世騎士道の時代には「聖槍」と称えられる武器がありますが、キリスト教の聖遺物に「ロンギヌスの槍、Lancia Longinus」と言うのがありました。『ヨハネによる福音書19.34』に処刑されたイエスの死を確認するために「脇腹を突いた槍」が記載されています。

中世にキリスト教会が「聖遺物」を収集し始めると、「イエスを処刑した時の十字架の木片」「聖女ヴェロニカがイエスの汗をぬぐった布」などとともに「ローマ軍の兵士ロンギヌスがイエスの遺骸を突いた槍」が現れました。エルサレムから持ち出され各地を転々とし、現在はローマにあるそうですが、ロンギヌスなる名前が出てくるのも様々な霊験譚が語られるのもずっと後の時代のものだそうで、まあ、論議抜きの伝説の世界の話と受け取るべきでしょう。
[返信]
[修正]
[削除]

不動明王の剣   野ア 準 : 2020/08/05(Wed) 09:29 No.690
|
11  仏教書専門店の在宅勤行集のコーナーに不動明王の巻があり、般若心経、不動経と祈祷文、各種の真言が記されていました。その中に説明抜きで「不動尊剣の文」と言うのがあり、不動明王と左右二童子、持物の説明に

「不動の剣は諸神がこもらせ給う。鋒(真先)に八幡大菩薩、焼刃は倶利伽羅不動明王、鎬は摩利支天、丸い鍔は満月。縁と頭は陰陽、切羽とハバキは阿吽、左右の目貫は金剛界・胎蔵界、左右三十三づつの柄節は日本六十六国の神祇、鮫肌は天の三百八十余神を著す」
 とあり、真言「なうまくさんまんだ ばざらだんかん」で終わります。

 読んだ限りでは諸刃の直刀で三鈷柄の「不動剣」でなく日本刀の説明です。何に用いた祈祷文なのでしょうか。
[返信]
[修正]
[削除]

平服の勝軍地蔵   野ア 準 : 2020/07/21(Tue) 17:39 No.689
|
8  昨令和元年、京都秋の非公開文化財特別公開のメモを見ていましたら蘆山寺(ろさんじ)で「伝、明智光秀念持仏」という地蔵菩薩像が公開されていました。

 岩山の上の蓮台に僧衣をまとい、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ普通の地蔵菩薩像ですが、向かって右に不動明王、左に右手を腰に当て左手に鉾をもつ毘沙門天がいました。

 地蔵菩薩の脇侍は『延命地蔵経』に「掌善、掌悪の二童子」とあり、不動と毘沙門が脇侍とはありません。この配置は愛宕権現の本 地仏「勝軍地蔵」のものです。

 室町時代に武将の信仰が篤かった勝軍地蔵は僧衣の下に甲冑をまとい、兜をかぶり、白馬に乗り、不動・毘沙門を左右に従える姿で表わされますが、僧形のままで勝軍地蔵として扱われる例もあるのだなと思いました。確かに光秀は愛宕山への信仰が深い武将でした。

 地方寺院に「戦国武将の念持仏」とされている地蔵菩薩像がある場合も、本来不動・毘沙門が付属していなかったか再検討の必要があるのではと思いました。
[返信]
[修正]
[削除]

五月雨のころ   野ア 準 : 2020/06/27(Sat) 08:27 No.687
|
11  京都御苑内から豊臣秀吉晩年に築城され間もなく廃絶、「同時代史料はあるが遺跡も地名も伝承地も不明」だった「新城」の石垣・堀が発見されました。

京都御所の周辺には国史上重要な史跡なのに廃棄後の破却も徹底、正確な場所も遺跡も断片的にしか判らない城館がいくつかあり、秀吉の「聚楽第」さえも最近の断片的な発掘調査の集積でようやく平面が明らかになってきた所です。

 戦国末期の足利将軍邸は現在の京都御苑の南西、現平安女学院の付近で、「武衛陣町」の町名がある付近でした。武衛(兵衛督・斯波義将)の陣の所在地でした。

 永禄八年(1565)5月19日に将軍足利義輝が三好氏に暗殺された地です。剣術に長じた武将だったので自害前に大いに戦ったという伝説もあります。

さみだれは露か涙かほととぎす 我が名をあげよ雲の上まで
『続応仁後記』の伝える足利義輝辞世。享年30.
[返信]
[修正]
[削除]


新しいレスから表示

Re: 五月雨のころ   花散里 : 2020/06/27(Sat) 17:53 No.688
1 この安土・桃山の時代、今からおおよそ400年余り前のことになりますが、時の為政者側の都合などによってあっという間に事実は葬り去られてしまうのでしょうね。

過去のことも、事実がぼかされ大人の事情によって語り継がれて行くみたいです。
織田信長の比叡山焼き討ちにしても、従来言われていた全山焼き討ちに対し近年の発掘調査では、意外なほどに燃え跡なども少なく何千人を殺したと言われて来た割には、人骨の出土なども無かったと聞きました。

真実は歴史の闇の向こうに・・・なのでしょうか?


コロナウィルスの影響はまだまだ続きそうです、ここまで頑張ってきましたのでこれから感染するのは悔しいです。
野崎先生も十分にお気を付けください。
[返信]
[修正]
[削除]
|

人間たちの歴史   野ア 準 : 2020/05/28(Thu) 21:28 No.686
|
8 長篠合戦に武田勝頼五月廿一日に人数を出す。信長見給ひ、敵も多勢なり、三万あるべし。と宣(のたま)ふ。家康公仰に、此度の軍(いくさ)、味方勝なり。敵丸く打囲む時は六ヶ敷(むつかしく)、散って人数を多勢に見するは勢を頼みにする間、大方勝なり、と御意なり。酒井左衛門尉、承(うけたまは)って、尤もなる義と感じ奉るなり。(常山紀談)

 天正三年(1575)五月の長篠城をめぐる織田・徳川連合軍三万八千と武田軍1万二千の兵が設楽ヶ原で激突。織田・徳川の鉄砲隊に武田側が大敗した時の話です。常山紀談は江戸時代も中期の書ですが、戦国の世に大義と名誉の為に戦い散って行った人々の物語です。

 戦国時代の歴史小説は「主君の為には命も捨てる優秀な部下数千、数万を率いて、勝敗は天の定める所、と勇壮に戦う人間たちの歴史」がヒットしたのですが、小説も映画・テレビもいつの間にかこういう世界は描かなくなりました。寂しいことです。
[返信]
[修正]
[削除]

天命逃れ難し   野ア 準 : 2020/04/27(Mon) 11:55 No.685
|
11  武家故実の伊勢貞丈(1718-84)の『軍神問答』は

「当節の武士は毘沙門天・大黒天・弁財天、或いは摩利支天、夜叉神、勝軍地蔵を軍神としているが、いずれも天竺の神。日本の武士なら大已貴命・武甕槌命・経津主命を祭り、甲冑を神の依代として勝利を祈れ」という趣旨です。

その中に、現代語訳しますと;
「問う、楠木正成のごとき良将・忠臣が大義のために戦った湊川合戦で討ち死にしたのは軍神の加護がなかったからか?」
「答う、合戦の勝敗は天命、すなわち運命が決する。天命は軍神にも変えられず、人知では予測できない。中国古代の聖人も天命を恐れた」
とありました。軍記などで「大義のため挙兵したが破れたのは天命の定め」などとあるのはこれですね。

新型コロナウィルスの蔓延でふと思い出しました。日常生活で気をつけてもいつ感染して肺炎併発、医療崩壊で「酸素吸入器不足・若い人優先・高齢者は安楽死」・・・となったら、これは「天命逃れ難し」かも。まあ、その時は「古武士の如く従容として逝く」の覚悟は必要でしょうね。

皆様にもどうかご無事でご健康・ご長寿を。
[返信]
[修正]
[削除]

『日本略史』の鉄炮伝来記事   野ア 準 : 2020/03/24(Tue) 16:50 No.683
|
8
 既出『日本略史』第五巻、天文十二年(1543)に;

八月。葡萄牙(ぽるとがる)ノ人百余人、一大船ニ乗シ種島【大隅】ニ来ル。言語通ゼズ。杖ヲ以テ沙ニ書キ、互市ヲ求ムルノ意ヲ示ス。時ニ葡人鳥銃ヲ齎(もたら)シ来ル。島主時尭(ときたか)、之ヲ購ヒ、人ヲシテ之ヲ學バシム。是ヨリ吾邦初テ鳥銃アリ、耶蘇教ノ我国ニ入ル、亦是ヨリ始ル。

 この種本は薩摩の僧南浦文之の『鉄炮記』で、海外史料とも矛盾しないというので、日本への鉄砲伝来は1543年、はほぼ定説でしたが、その後はこれ以前の鉄砲使用の記録あり、とか南蛮船でなく明の船だとか異論も出ているようです。

 海外から伝えられた新兵器を直ちに国産でき、30〜40年後には弓矢・槍に代り歩兵の主要武器になるのは日本の鉄加工技術のレベルが高かったから、と言われています。
 なお鉄の鍛接に硼砂を使うのはこの時南蛮人から教わったという説もあり、技術の交流は他にもあったようです。
[返信]
[修正]
[削除]


新しいレスから表示

Re: 『日本略史』の鉄炮伝来記事   田舎侍 : 2020/04/22(Wed) 00:20 No.684
1 甲陽軍鑑 信長公記 そしてNHK大河ドラマ脚本 この3つが私たちが刷り込まれた戦国歴史ですね(笑)
まぁ ルイスフロイスや貿易商など外国人の報告も自分を美化してるでしょうし 真実は??



[返信]
[修正]
[削除]
|

岡野左内と刀   野ア 準 : 2020/02/26(Wed) 19:22 No.682
|
8  戦国時代末に蒲生氏、上杉氏に仕えた岡野左内という武士がいました。生没年不明で、上杉景勝に仕えていた時、関ヶ原の戦い直後から翌慶長六年(1601)にかけ伊達政宗が上杉領福島・梁川を攻めた時の活躍で知られます。

 阿武隈川の支流松川に伊達郡本陣と二万の軍勢を見た岡野は、伊達の軍勢は渡河の支度をせず小荷駄を遠ざけている事から上杉軍の渡河を待って迎え撃とうとしていると判断、二十騎ほどで渡河し、大軍に取り巻かれての苦戦を犯して戦いました。『常山紀談』は

 政宗勇み進んで追いかけられしに、岡野猩々緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り支え戦いけるを、政宗馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野返り見て政宗ノ兜の真っ向より鞍の前輪をかけて切りつけ、返す刀で兜のしころを半ばかけて切り払う。政宗刀を打ち折りてければ、岡野すかさず右の膝口に切りつけたり。政宗の馬飛び退きてければ、岡野、政宗の物の具以ての外見苦しかりし故、大将とは思いもよらず、続いて追い詰めざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきにとて大いに悔やみけるとなり。

 まもなく上杉氏は米沢に転封、岡野は伊達氏からの誘いを断り蒲生忠郷に仕えます。武器・武具以外には浪費せず、質素な生活に甘んじましたが死に臨んで蒲生忠郷に、「金子三千両、正宗の刀を遺物に献じ、忠郷の弟中務にも金子三千両、景光の刀、貞宗の小脇指を形見に・・・人に貸しける金銀の手形証文を焼きすて」た、と言います。常に戦場の覚悟、武器武具の用意、名刀の収集、これが戦国武将の一つの理想の生き方だったのでしょう。
[返信]
[修正]
[削除]

明治の歴史書から   野ア 準 : 2020/01/08(Wed) 12:08 No.680
|
11  明治の漢学者・歴史学者笠間益三(1844-97)の『日本史略』を古書店で偶然、再刊本も含め全八巻入手できました。
 著者は筑前柳川藩士、明治政府の官吏となり旧制五高などで教鞭を執っていた人です。神武天皇から明治10年の西南の役の終結まで、明治13年の木版本でした。
 「小学童蒙のための平易な通史」といい面白い国史概説です。

 謙信・信玄の川中島の戦いは「五度合戦記」等により、二人の一騎打ちは天文23(1554)年、川の中とされています。一部現代漢字にしました。

 天文二十三年八月。謙信復タ兵八千を帥テ信濃ニ入リ、犀川ヲ渡リテ陣ス。信玄一万人ヲ以テ出テ之ト対ス。塁ヲ固クシテ出デズ。謙信伏ヲ設ケ、甲斐ノ軍ヲ誘キ出シ、之ヲ殺ス。甲斐ノ軍随テ皆出ツ。大ニ戦フテ互ニ勝敗アリ。信玄潜ニ令ヲ下シ、犀川ヲ渡リ、旗ヲ伏セ、葦中ヲ経リ直ニ謙信ノ麾下ヲ襲フ。麾下潰走ス。宇佐美定行、横ニ信玄ヲ撃チ之ヲ破ル。信玄数騎ト走リ河ヲ乱ル。一騎将アリ。白布ヲ以テ面ヲ覆ヒ、太刀ヲ抜キ、来リテ信玄ヲ中流ニ逼ル。信玄将ニ逃レントス。騎将罵テ曰ク、「豎子、此ニ在ルヤ」ト。刀ヲ挙テ之ヲ撃ツ。信玄麾扇ヲ以テ之ヲ扞ク。信玄ノ従士、之ヲ救ハント欲ス、水速シテ近ク能ハズ。槍ヲ挙テ之ヲ撃ツ。馬ニ中ル、馬跳リテ淵中ニ入ル。信玄因リテ免ル。是日両軍死傷相当ル。信玄創ヲ被レリ。・・・越後ノ捕虜云フ、「導キノ騎将ハ乃チ謙信ナリ」ト。

[返信]
[修正]
[削除]


新しいレスから表示

[→680] Re: 明治の歴史書から   野ア 準 : 2020/01/09(Thu) 09:59 No.681
11  上杉謙信・武田信玄の「川中島合戦」は天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで5回行なわれた、とされています。しかし基本文献が武田方の「甲陽軍鑑」、上杉方の「北越太平記」など後世の脚色されたものしかなく、しかも面白いエピソードはこれらの文献にしかないという厄介な歴史だそうです。

 両軍が本気で衝突して大きな戦いになったのは第二次の天文24年、川中島八幡原で両軍主力が戦った永禄4年の第四次合戦とされています。江戸時代には信玄・謙信の一騎打ちは第二次の合戦で川の中、とされていました。川中島合戦の屏風絵などにはこの様子が描かれ、笠間氏のこの場面の種本となっている頼山陽「日本外史」もこの説に拠っています。

明治以後は小説や映画、テレビドラマなども両雄の対決は第四次合戦に上杉軍が武田の本陣に迫った時の事としています。大将自ら斬り合ったという以外に同時代史料なし、脚色自由自在と判明したからでしょう。

 なおこの真偽不明の文献には「小豆長光鉄砲斬り」という名剣伝説もあります。

[返信]
[修正]
[削除]
|

神社への刀剣奉納の始まり   野ア 準 : 2019/12/17(Tue) 15:47 No.677
|
8  幕末明治に筑後柳川藩士から明治政府に仕えた漢学者・官吏で、旧制五高などで教鞭を執った笠間益三(1844-97)の『日本略史』という本があります。明治11年(1878)刊の木版本の日本史概説、神武天皇から明治10年(1877)の西南戦争終結までですが、政治史を中心に外交史、文化史、挿話などにもふれ、面白い通史でした。

 その古代史、人皇11代垂仁天皇の記事に
「二十七年 兵器ヲ以テ神幣ト為スヲ卜(ぼく)ス。吉ナリ。兵器ヲ以テ神ヲ祭ル、此ニ始ル。本邦尚武ノ風。由リテ来ル所ナリ」。
 とありました。

垂仁天皇は『古事記』にも
「また鳥取の川上宮に坐して横刀(たち)一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り・・・」とあり、この刀剣大量製造と石上神宮への奉納の記事は『日本書紀』垂仁天皇39年紀にも見えますが、兵器奉納の事はそれより12年前の垂仁紀に

「二十七年秋癸酉朔己卯。祠官(かむつかさ)ニ令(のりごと)シテ兵器(もののぐ)ヲ神幣(かみのまひ)ト為(せ)ンコトヲ卜(うらな)ハシムルニ吉也(これよし)。故、弓矢横刀ヲ諸神ノ社ニ納ム。乃チ更ニ神地、神戸ヲ以テ定メ、時ヲ以テコレヲ祠シマツル。蓋シ兵器ヲ以テ神祇ヲ祭ルハ是時ニ始テ興ルナリ」。
とあります。

時代が神仏習合・神儒合一を離れて純粋の日本神道への回帰を模索していた時でもありますが、こういう些事にも気づくとは流石明治の史学者だと思いました。

 令和元年もあとわずか。皆様よいお年を。
[返信]
[修正]
[削除]


新しいレスから表示

Re: 神社への刀剣奉納の始まり   真改 : 2019/12/29(Sun) 15:22 No.678
1 今年も大変お世話になりました。

来年もよろしくお願い致します。
[返信]
[修正]
[削除]

Re: 神社への刀剣奉納の始まり   花散里 : 2019/12/31(Tue) 18:12 No.679
1 いつも興味深い話題を提供いただき、誠にありがとうございます。

体調にはくれぐれもご自愛いただき、良いお年をお迎えください。
[返信]
[修正]
[削除]
|

ページ移動

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |

NO: PASS:
 [標準/一覧/ツリー]  []

- KENT & MakiMaki -
携帯用改造:湯一路
Modified by Tambo