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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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快刀乱麻とはいかない   野崎 準 : 2018/10/29(Mon) 14:24 No.658
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8  中国宋時代の類書『錦繍萬花谷』の巻三十「剣」に
 「秋水 越絶書太阿剣其色如秋水」
とありました。刀剣関係で「なぜ研ぎ澄まされた刀を秋水というか」に「越絶書にある」と言う出典はこれのようです。
 
 楚の太阿(泰阿)の剣というとあの「楚王が城壁の上で抜刀しただけで包囲していた晋の三軍が全滅した」という核兵器級の恐怖の名剣です。

 『錦繍萬花谷』は宋時代に印刷され金沢文庫など中世日本にも伝来して読まれていた本で、中世の『尺素往来』でも「干将、莫耶、吹毛、太阿」が中国の名剣として出てきますから、太阿のごとき秋水、で広まったのではないか、と思いました。

 ただ現在普及している『越絶書』巻十一外伝宝剣には「太阿剣其色如秋水」という記述はないのですね。「其光輝如水」のような記事はあるのですが。引用するとき『越絶書』の原文を見ないで孫引きしたのでしょうか。

 中国の文人は「古典とは暗記するもの」で、それを文章で記録すると自然に誤字・脱字・当て字が多くなり、古典には異本が多く校訂が必須です。たまたま宋時代に多く読まれていた『越絶書』では「秋水」になっていたのかも知れません。

 秋水をもって快刀乱麻とはなかなか行かないようです。
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粟田口オレオレ詐欺   野崎 準 : 2018/10/08(Mon) 08:10 No.655
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10  京博の「京のかたな」展を見てきました。

 ずらりと並ぶ三条、五条、粟田口、来などの名刀に「山城鍛冶の影響を受けた刀」や「京都ゆかりの名刀」として国宝、重文が一杯、平日午前に行ったのに行列でした。

 狂言『粟田口』では「粟田口比べ」に誘われた田舎大名が太郎冠者に「粟田口を買おう」と叫ばせると京のスリが「オレオレ、俺は粟田口藤右馬允(あわたぐち とうまのじょう),合戦の先陣に立てると大勝利疑いないという名門の者じゃ」と言葉巧みに大名に取り入り、預かった刀を奪って逃げます。

 大名との対話に「粟田口ならハバキ元が黒いと聞いたが」「黒い脛布(はばき)をつけております」「刃は硬いと聞いたが」「歯は固く石でもかみ切れます」「身は古いか」「風呂に入った事もありませぬ」「二つ銘がよいと言われているが」「上京、下京に姪が一人ずつおります」・・・・とあり、刀剣に詳しい中近世の人々は大笑いしたのでしょう。

 ちょっと気になるのは「先陣に立てると勝利疑いなし」で、田舎大名が納得したのは、或いは粟田口の刀にそういう失われた伝説があったのかも。
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Re: 大人気のようです   真改 : 2018/10/08(Mon) 09:25 No.656
1 「京のかたな」展、開催前から大人気のようです。
行きたいけど、行けない。

しかし、台風が過ぎ、気候も良くなってきたので、並んで待つのも、その先の国宝や重要文化財が見ることができると思うと、苦にならないかもしれませんね。(^^)。
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Re: 粟田口オレオレ詐欺   野崎 準 : 2018/10/09(Tue) 06:33 No.657
10 京博の行列は前も後ろもご婦人で、男性見学者は20〜30人に1人、それも私のようなご高齢が大半でした。

 時代が変わったのかなと。
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京都二条城の見学   野崎 準 : 2018/09/27(Thu) 09:15 No.654
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8  久しぶりに京都二条城を見学しました。ここ数年大手門などに覆屋をつけて修理しており、つい足が遠のいていました。
 台風21号の「昭和9年の室戸台風以来」という暴風で二の丸庭園はまだ修復中、外堀沿いの並木や清流園内にも倒木や伐採の後が残されていました。

 この城は徳川家康が慶長6〜8年(1901-03)にかけて京都の滞在館として築城、元和偃武の後寛永年間に増改築されて後水尾天皇の行幸を仰ぎ、江戸時代の数回の大火などを経て明治維新後は離宮、昭和14年京都市に下賜されて観光施設になりました。
 現在は世界文化遺産、二の丸御殿は国宝、大手門・二カ所の隅櫓・諸門などが重文、二ノ丸庭園は特別名勝です。

 大修理後に解説も一新され、本丸御殿では近世武家建築の他明治の離宮時代の追加(装飾金具を葵紋から菊紋に変える、天井画を有職文様とするなど)、本丸や天守台、諸門などにも新しい城郭史研究による説明板がありました。

 昔の案内記には出ていたのに消えてしまったのは家康創建期の石垣は徳川再建大坂城の石垣のように、切石を使いながら隙間に割石を詰める初期の切石積み、寛永改修部分の石垣は隙間のない完成された切石積みということです。外堀の西側、二条堀川沿いの石垣などは古い積み方です。当時の城は火縄銃の射程を考慮して堀の幅は100m以上が普通なのにここの堀幅は10〜20m。城郭より居館の機能優先だったのでしょう。

また大きな地図で見ると分かりますが城の方位は昔からの京都の街路とわずかに食い違っています。これは平安遷都(794年)の都市計画は当時の北極星の位置を基準に、二条城は磁石の方位を基準としたからと言われています。数百年規模だと天の北極の位置も磁北もわずかに移動しており、慶長年間の磁北は今より東に偏位してほぼ真北を向いていたそうで、江戸時代初期に磁石を用いて方位を決め築城された各地の城や城下町にも同様の方位がある、と言われていました。

 南蛮屏風でも見るように西洋人観光客が一杯でしたが、京都の観光地一般と同様武家文化の説明や刀剣武器のお土産品は少なく、説明も徳川氏の皇室崇敬、大政奉還、離宮としての大正天皇即位時の賑わいなどに重点がおかれていました。京都はサムライでなくミカドとお公家さんの都市だ、と言うのでしょうか。
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京都の鍛冶神社まつり   野崎 準 : 2018/08/05(Sun) 18:08 No.653
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10  春に京都市東山区三条粟田口の粟田神社に行った時、「8月第一日曜日に鍛冶神社祭」と聞きましたので、今日8月5日に拝観してきました。粟田神社参道脇の小祠です。
 
 境内を改修したとかで小さな社殿の周りに欧陽修『日本刀歌』や水戸烈公の漢詩を刻んだ石柱、明治天皇の歌碑などが玉砂利を敷いた中にきちんと並べられていましたが、前に形だけ残っていた井戸の石積がなくなっていました。刀工の遺跡は清冽な水の井戸が根拠という所が多いのに。

 宮司様と巫女さん二人で参列者は氏子10人ほど。修祓、祝詞奏上、謡(多分『小鍛冶』)奉納、玉串奉献と工事関係者表彰で終わりでした。京都だから刀匠の実演ぐらいあるかなと思っていたのですが。

 氏子の他婦人見学者30人ほどは刀剣女子だったのでしょうか。三条小鍛冶宗近、粟田口藤四郎吉光の工房と伝え二刀匠をまつっているのだから刀剣愛好家の為に玉鋼くらい展示されては、とも思いました。
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インドの隕鉄ナイフ   野崎 準 : 2018/07/29(Sun) 19:50 No.652
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8  ネットで隕石刀を検索していたら、先年再分析を受けたエジプト・ツタンカーメン王墓の短剣、吉原刀匠の「天鉄刀」と共に「米国スミソニアン博物館蔵のインドの隕鉄刀」が出てきました。

 16-19世紀にインドを支配していたイスラム王朝、ムガル帝国のジャーハンギール帝(在位1605-27我が国慶長〜寛永年間)の年代記に、落ちてきた隕石で造ったと記録されているナイフだそうです。

 従来の化学分析では隕鉄ではない、とされていたのが近年蛍光X線分析法で再分析したところ隕鉄製と確認されたとあります。

 オクタヘドライトだそうですからニッケル10%前後含有の鉄で、高炭素の玉鋼や現代の低合金刃物鋼のように「折れず曲がらずよく切れる」刃物を造るのは無理と思いますが、年代記には刀より鋭利、とあるそうです。画像には杢目のような地紋が見えました。
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深堀事件と日本刀   野崎 準 : 2018/06/19(Tue) 21:14 No.651
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11  江戸時代の元禄13年12月(西暦では1701年1月)に長崎で、長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士が小者の喧嘩が元で争いになり、多数の死者を出した「深堀事件」或いは「長崎喧嘩」と言う騒動がありました。

 小者の争いから会所の者が深堀の屋敷に乱入して暴行、負傷した深堀三右衛門が紫原武右衛門ら12人で長崎会所に討ち入り、暴行を指揮していた高木彦右衛門を討ち取って首を取り、責任を取って直ちに切腹して果てた、という事件です。幕府は双方の関係者十数人に切腹、斬首、流罪を命じて事件は収束します。

 この話が『日本刀及日本趣味』誌に「刀剣余話・武士道叢談」として紹介されていました。雑誌の性格上日本刀での斬り合いが中心でしたが、著者は副島蒼海(種臣)の説として、元禄15年の赤穂浪士の吉良邸討ち入りはこの事件に感憤興起(かんぶんきょうき)して起きたとし、最後に『葉隠』の、赤穂浪士も延引せず直ちに討ち入りし、本懐を遂げたら泉岳寺で切腹していれば完璧だったのにという批評を載せていました。

 大阪の陣から85年ですがまだ武士には尚武の気構えが残っていたのでしょう。

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古都の古書店にて   野ア 準 : 2018/05/26(Sat) 07:26 No.650
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7  京都寺町の古書店で古雑誌の中から『日本刀及び日本趣味』誌、昭和12年(1937)3月号を見つけました。

 考古学の記事が読みたくて買ったのですが、当時タタラ製鉄は不採算で閉山してしまった事をあげ、「日本刀は砂鉄から木炭で製錬した鋼がないと作れない、林(銑十郎、陸軍出身)総理にはご英断を以て日本鉄の製錬を復活していただきたい」とか、「本多(光太郎)博士は化学分析の進展で将来は正宗の名刀の復元も可能、と申されたが刀匠が精魂を込めた日本精神は化学では解明不可能と思うが如何」などとありました。日本紀元2600年(昭和15年)を前に日本精神高揚が盛んだった時です。

 砂鉄製錬は軍刀生産のため昭和8年に「靖国タタラ」が復活し、戦後は日刀保タタラが継続していますが、分析不可能な日本精神の方はどうなっているのでしょう。

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志士の漢詩   野ア 準 : 2018/04/28(Sat) 19:34 No.648
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8 従軍作 藤田信(小四郎)
 憂時慨世真無用。嘯月吟花却有情。
 営外今朝人若問。将軍酔臥未全醒。

 時ヲ憂ヒ世を慨(なげ)ク真ニ無用。月ニ嘯(うそぶ)キ花ニ吟ズ却テ情アリ。
 営外今朝 人若シ問ハバ。将軍ハ酔臥シテ未ダ全ク覚メズト。
【評釈】従軍にあっては時を憂い世を概するは無用。むしろ花月に吟詠するが情けあり。人に聞かれたら将軍は酔って未だ覚めずと答えよ、と。自家の豪懐を述べたるなり。(『和漢名詩類選評釈』)

 豪快な詩ですが、藤田小四郎は藤田東湖の子。武田耕雲斎らと水戸天狗党の乱を起こし慶応元年捕縛され処刑。享年25歳。
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春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/03/23(Fri) 18:41 No.646
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8  今年は3月21日春分の日、春彼岸の中日に東京に雪が降りました。

 3月中旬の雪は珍しいのですが1860年には3月24日に雪が降っています。旧暦でいうと万延元年三月三日。「天誅!と烈士が言ったから三月三日は桜田記念日」の桜田門外の変があった日です。前夜からの春の淡雪で事件当日は曇り、映画・演劇のような「落花紛々雪紛々」ではなかったらしいですが。

 彦根藩はこの時暗殺された大老井伊直弼以外に警護の武士は即死4人、重傷のち死亡4人、負傷し引責自決となったもの、逃げて彦根藩に処刑されたものまで多数の死者、攻撃側も即死1人、負傷して自決、自首して斬罪など18人のうち明治まで存命できたのは2人だけと記録されています。

 この事件で徳川幕府の親衛隊、戦闘力第一と称していた彦根井伊家は藩主を暗殺されて、威信は地に落ちます。そしてそれまで武闘を控えていた勤王・佐幕の争いが凄惨な幕末の死闘に至る発火点となりました。

 注意したいのは作戦開始の合図に井伊大老の駕籠がピストルで狙撃され、それがほぼ致命傷だったのにその後は双方刀での斬り合い、大老は斬首、と事件の主要武器は刀だったことです。近代的な洋式銃による戦闘になるのは戊辰戦争の頃までかかった様です。
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[→646] Re: 春雪の桜田門   野ア 準 : 2018/04/01(Sun) 19:54 No.647
11 走筆作詩 黒沢勝算
狂ト呼ビ賊ト呼ブ、他ノ評スルニ任ス。幾歳ノ妖雲、一旦晴ル。
正ニ是レ桜花ノ好時節。桜田門外、血桜ノ如シ。

 襲撃犯の一人黒沢忠三郎の漢詩。最初に大老をピストルで狙撃した人物と言われています。負傷して数藩の預かりとなり同年七月に病死。簡野道明『和漢名詩類選評釈』(大正三年)所収。簡野氏は
「詩としては伝うるに足らざれどもその精神気迫の自ら二十八字に躍出せるを取る」としておられます。

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Re: 春雪の桜田門   田舎侍 : 2018/05/03(Thu) 02:18 No.649
1 いつも楽しく拝見しています。
数年前のニュースで、どこか忘れましたが地方の関所の古文書を調べていた中で・・・不審者として取り調べた者の中に彦根藩の人足だった者がいて、調書には 「その者井伊直弼襲撃の列におり平民の人足だったから追放された」との事。
「隊列にいた武士は一族郎党親子老人にいたるまで全員死罪になったと供述した」という古文書記録が発見されたという「ニュースを見ました。

武士は大変ですね。

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『明治新刻国史略』の抜刀隊   野ア 準 : 2018/02/26(Mon) 19:23 No.645
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11  前記『明治新刻国史略』の西南の役、明治十年(1877)三月二十日の記事に:

「田原坂ヲ抜ク。・・・田原ノ賊、険ニ拠リテ七塁ヲ築キ我ガ軍ヲ伏撃ス。砲弾霰ノ如シ。陸軍大佐福原和勝、少佐吉松秀枝等奮戦シテ之ニ死ス。是ニ至リテ近衛歩兵ニ東京鎮台ノ兵ヲ合セ、更ニ巡査若干名ヲ以テ抜刀隊ト為シ此ヲ軍後ニ置ク。各銃槍ヲ以テ雨ヲ衝キ谷ヲ渉リ二俣ニ向フ。二股ハ田原ノ間道也。賊亦日ヲ待テ一戦ヲ欲シ決別ノ宴ヲ張ル。宴ノ未ダ酣(たけなわ)ナラザルニ我ガ兵既ニ迫リ、吶喊(とっかん)突入ス。縦横ニ刺殺シ賊軍大ニ乱レ銃ヲ棄テ走ル。我兵追撃シ之ヲ鏖(みなごろし)ニス。田原ノ賊、風ヲ望ミテ壊走ス」。

「♪維新このかた廃れたる日本刀の今更に、また世に出づる身の誉れ」・・・の警視庁抜刀隊が一行だけ出てきました。一般には応召兵では薩摩氏族の抜刀突撃におびえる、と警察官になっていた旧賊軍の氏族が、薩摩への私怨も果たそうと参加したように言われていますが、実際の隊員は政府軍側の薩摩氏族が中心だったようです。
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