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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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蒲生家の宝刀   野ア 準 : 2017/11/30(Thu) 22:19 No.634
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11  京都の民俗を調査された井上頼寿氏の『京都民俗志』(初版昭和8年、東洋文庫で再刊)を読んでいましたら蜈蚣(ムカデ)の民俗例の終わりに
「右京区妙心寺に蔵する棄君の宝剣は元俵藤太秀郷が三上山の蜈蚣を退治した時の鏃であった。それを子孫蒲生氏が宝剣として伝えていたのを氏郷のとき秀吉に献じた。
 さて献じてしまうと同氏は年を逐うて衰えたと『都林泉名所図会』に見える」
 とあります。

 豊臣秀吉の子で幼くして死んだ棄丸君の宝剣は倶利迦羅龍守刀で両刃の短剣、銘は備前福岡一文字派の「尚宗」で、鏃の作り直しという姿ではありません。

 蒲生氏と「秀郷蜈蚣退治の鏃を仕立て直した刀」の伝説は他にもあり。盛岡藩主南部利直の妻於武の方が蒲生家から輿入れの時の守り刀、没後墓に蜈蚣が群れるなど怪異があった、と伝えます。

 京都の町衆は「伝家の宝刀は天下様に頼まれても献上するな。家が傾く」という考えだったのでしょう。名刀の海外流出の話を聞くと思い出します。
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国宝展後期へ   野崎 準 : 2017/11/16(Thu) 18:40 No.633
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10  京博の『国宝展』後期を再訪しました。平日の朝早く行ったのですが入館前に長い行列で会場も満員でした。縄文土器から雪舟・宗達・光琳まで美術工芸品200点以上ですから全国からの見学者なのでしょう。

 金工の部屋、刀剣展示は永青文庫蔵「豊後行平太刀」とふくやま美術館の「太閤左文字短刀」でした。甲冑は島根県日御崎神社の「白糸縅大鎧」が出ていました。

 大鎧の縅糸は「若武者が赤や緋色、壮年は紺や黒色、大将級は高貴な紫糸」が基本で、個人識別のため大袖などに豪華な模様が入るのが普通ですが白糸は珍しいです。鎌倉時代後期14世紀ですから白鳥の騎士やガンダムとは無関係でしょうが。
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一休和尚と朱塗りの大太刀   野崎 準 : 2017/11/08(Wed) 19:25 No.631
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9
 秋の文化財公開で東山祇園の近く、建仁寺境内の霊源院を見学してきました。

 一休禅師が若い頃修行した寺というので「祇園一休寺」と称して画像や墨跡を蔵しています。見学時には「一休朱太刀像」が初公開されていました。曲□(きょくろく)に座した一休和尚の右(向かって左)に長大な朱鞘の野太刀が置かれています。

 堺に布教の時この太刀を持ち、「僧侶が武器を携帯するとは」、と非難されると「これは木太刀じゃ。抜くことも切ることもできぬ。殺人も活人もできぬ未熟な禅僧の如し」と、当時すでに形骸化しつつあった臨済禅を批判したのだとか。

この図のように柄を下にして立てかけるのが野太刀の正式な置き方などでしょう。右側に置くのは一般の刀と同様抜き打ちが出来ない位置です。有名な図で、一休和尚終焉の地、酬恩寺などにも同様の画像があります。

 写真の出ている集印帖用のカードを求めましたら見学の日付と「大丈夫 心配するな なんとかなる」という文が記入されていました。
 晩年京都大徳寺の住職となり応仁の乱の焼亡からの再建に尽力した一休の遷化後、財務の行き詰まりで困惑した大徳寺の僧たちが「禅師が亡くなるとき『愚僧の死後、寺に一大事が起きたら開け』と遺された封書があった」と開封したら「大丈夫 心配するな なんとかなる」と書いてあったとか。僧たちは大笑し、元気を出して再建を続けたと。まあ後年に出来た「一休さん伝説」の一つなのでしょうが。
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Re: 一休和尚と朱塗りの大太刀   野崎 準 : 2017/11/09(Thu) 22:29 No.632
9 □=「録」の字の旁です。 [返信]
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国宝展   野崎 準 : 2017/10/20(Fri) 09:31 No.629
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8  京都国立博物館創立120年記念『国宝展』を見てきました。全国からの国宝200点以上を4期に分けて展示という豪華な物です。平日の朝一番に行ったらもう長い行列で、館内も大混雑でした。

 見学した日の刀剣展示は河内金剛寺の黒漆宝剣拵付き剣(平安時代)と古備前の「備前国 友成造」(東京国立博物館蔵)、「銘 正恒」(文化庁蔵)の二振の太刀が展示されていました。後期は永青文庫の「豊後国行平」と広島・ふくやま美術館の「太閤左文字」が展示予定とありました。

 美術館なので武器・武具が少ないのが残念でしたが、厳島神社の大鎧も展示中でした。
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Re: 国宝展   真改 : 2017/10/20(Fri) 14:10 No.630
1 野崎先生、こんにちは。

運慶の展覧会やら、ご紹介頂きました「国宝展」やら、全国的に日本の文化財の展示会が目白押しです。

もっぱら刀が好きな私ですが、仏像や絵画も大好きですので、とても嬉しい限りです。

大鎧といえば、四国では大山祇神社のお宝が有名ですが、まだ行ったことがないのです。
なかなか足が向かない、そんな気分を一新したいです。
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秋霜三尺   野崎 準 : 2017/09/08(Fri) 07:48 No.624
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11  雨続きの東日本と猛暑の西日本だった夏も終わりました。

「刀剣=五行では金・秋」を追いかけていましたら平安時代の『和漢朗詠集』が出てきました。「将軍」の詩歌の中に
「雄剣在腰 抜則秋霜三尺。雌黄自口 吟亦寒玉一声 順」
雄剣腰ニ在リ 抜ケバ則チ秋ノ霜三尺。雌黄口ヨリス 吟ズレバマタ寒玉一声。
源順(みなもとのしたごう)の漢詩で、将軍とは腰に名剣を携え口には雌黄(文書修正液)を含み義に違うことを許さない」という位の意味です。

 岩波日本古典舞楽大系の注釈には「雄剣=干将が雌剣雄剣を鋳造した(呉地記)。秋霜=呉の季札の剣は三尺、霜雪の如く氷の如くであったと言う」とあります。
 呉の季札(きさつ)は『史記・呉太伯爵世家』に見える春秋時代の呉の王子で、友人の欲しがっていた名剣をその死後に墓の木に掛けて去ったという故事で有名ですが、青銅器時代末期の話ですし、『史記』には「霜のごとき剣」は出てきません。

 幕末の国学者・歌人の橘曙覧が刀を贈られた時の歌に
抜くからに身を寒くする秋の霜 心にしみて嬉しかりけり
 とあり、土井晩翠の『荒城の月』二番の「秋陣営の霜の色」も秋霜=刀=植うる剣と対応させた言葉だという説もありますので、刀を秋霜とすることは一般にも周知だったようです。
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Re: 訂正   野崎 準 : 2017/09/08(Fri) 18:54 No.625
11 訂正
 呉太伯爵世家 → 呉太伯世家
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Re: 秋霜三尺   野崎 準 : 2017/09/30(Sat) 05:42 No.626
11  図書館で数種類の漢和辞典を見る機会がありましたので「秋」の項目を見ましたが、「秋霜」「秋水」「秋剣」などは最近の辞典では「秋霜烈日」関連で「秋霜」が出ている程度で、全く記述のない辞書もありました。

『和漢朗詠集』の秋霜三尺の解釈があまり詳しくないのもそのためかなと思いました。
 現代の生活では刀剣用語は遠い世界の言葉になって行きつつあるのでしょう。
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Re: 秋霜三尺   花散里 : 2017/10/02(Mon) 11:59 No.627
1 「秋水」で検索してみても、Hitするのは大東亜戦争終戦間際のロケット戦闘機か、思想家の幸徳秋水ですね。

富山県で昨年の6月に開館した「森記念秋水美術館」が、かろうじて・・・と言ったところでしょうか?

http://www.mori-shusui-museum.jp/
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Re: 秋霜三尺   野崎 準 : 2017/10/13(Fri) 17:22 No.628
11  旧制第二高等学校(仙台)の応援歌の「凱歌」に

♪秋水ひとたび閃めけば君は無人の境行く・・・

という一節があり、東北地方の新制男子高校でも応援歌として歌われ、「秋水」が名刀の事だとは皆知っていたはずです。

ただ出典が分からないのですね、明治は漢詩吟詠が盛んだった時代ですからどこかにあると思うのですが。
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山本勘助はかく詠じた   野崎 準 : 2017/08/28(Mon) 12:14 No.623
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10  江戸時代初期の物語に浅井了意『伽婢子』(とぎぼうこ・おとぎぼうこ)があります。室町物語と元禄時代に現れる江戸の「浮世草子」の中間に置かれる物語で、作者の浅井了意は中国文学にも通じた僧侶で、唐・宋・明の怪異小説を日本の物語に置き換えた多数の物語が含まれています。伽婢子とは幼児用の人形のことです。

 その中に「幽霊諸将を論ず」という作品があり、甲斐国恵林寺の精霊会の夜に山本勘助、直江山城守などの名軍師の霊が現れて戦国時代の合戦を論じるという物語があります。中国の「剪灯新話」に五代から唐時代の豪傑の霊が談論する話の翻訳だそうですが、話を終えて冥界に戻る諸将が漢詩を読み、山本勘助は

「平世ノ知略、胸中ニ満チ。剣は秋霜ヲ払ヒ気ハ虹ヲ吐ク。
身後何ゾ濫(みだり)ニ興廃ヲ論ゼン。憐ムベシ怨恨ノ深窓ニ嘯(うそぶ)クヲ。」

まあ、史実でなく浅井了意の創作でしょうが、他の豪傑たちの漢詩と違い剣が出てくるのがヤマカンらしいと思いました。
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小鍛冶の井戸   野崎 準 : 2017/07/24(Mon) 16:45 No.622
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10  「小鍛冶が井は山門の傍にあり。【三条宗近、名剣を打ちし時、ここに来ってこの水を用ひしとなり】 (『都名所図会』巻三 東山知恩院の章)

 岩波文庫の『都名所図会』には三条宗近に注記して
「平安中期の刀匠。橘姓。信濃守粟田藤四郎と称し、粟田口三条坊に住す。名刀小狐丸をはじめ幾多の名剣を作った」と書かれています。

 知恩院の巨大な山門、長い石段に登る手前の植え込みの中に石の井戸があります。初めて見た時なぜここに?と思ったのですが地図を見たら知恩院の北が広い範囲で「左京区粟田口」でした。京都の刀工の居住地です。山科方面から東山の日の岡越で京都に入る街道添いでした。

 知恩院の北側に鍛冶町の地名、粟田神社、相槌稲荷、もう一つ小鍛冶の井戸があったという仏光寺など刀剣愛好家の関心をひく史跡がありますが、市街地化が進み昔の鍛冶町の面影はありません。いつか鍛冶工房の遺跡でも出土しないかなと思っていますが。

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戦国時代の将棋   野崎 準 : 2017/06/28(Wed) 21:37 No.621
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8  中国文人の教養は「琴棋書画」とされていますが、この「棋」は碁のことで、将棋は西方起源、平安時代には日本でも行われ、いろいろな盤・駒・ルールがあり今の「本将棋」は江戸時代に確立したようです。

 戦国時代1には「軍学の参考に」と称して結構楽しまれていたようです。最近福井県一条谷朝倉氏遺跡など戦国期の遺跡から「中将棋」の駒が出土し、テレビ時代劇などでも戦国武将の将棋の場面に登場するようになりました。

 中将棋は駒が92(現在の本将棋は40)で、王将、飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵に加え「銅将」「麒麟」「獅子」「猛豹」「酔象」などの駒がありました。

 現在将棋の駒生産で有名なのは山形県天童市で江戸時代織田二万石城下町時代に武士の内職として始まったものだそうです。

 伊達政宗の家臣伊達成実の甲冑に「香車」の駒をデザインしたものがあり、「香車は前進しかしない」から後退しない強者を示すそうです。確かに現在伝わっている古い将棋のルールでも香車は前進しかしません。
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上穂十一騎のこと   野崎 準 : 2017/05/27(Sat) 20:49 No.620
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11  長野県駒ケ根市の光前寺に石仏を拝観に行った時、境内の説明板に「伊達政宗」の字が見えましたので驚いて読んで見ましたら、「大坂の陣で駒ケ根付近の領主千村氏の家臣の三男・四男11人が大坂方に加わり、『上穂(うわぶ)十一騎』と称して真田幸村の配下として伊達政宗と戦い、のち幸村と共に全員討ち死にした」、とありました。小さな石の祠が並び、明治時代に建てられた慰霊碑もありました。この付近はもと諏訪氏領ですから11騎は広義の武田騎馬隊の残党です。駒ケ根市のホームページにも出ており、11人の名簿まで記録されていますが、残念ながら伝承で、同時代史料は未発見のようです。しかしなぜ伝承に伊達政宗が出てくるのでしょう。

 信長の甲州攻めで武田勝頼が自害したと中国筋で聞いた秀吉が、「無駄な事を。勝頼は降伏させ甲斐・越後を与えて東国攻めの先陣に使うべきだったのに」と残念がった話が『岩淵夜話』や『常山紀談』に見えます。東国の騎馬隊に勝つことができるのは武田騎馬隊だけだったと。

大坂夏の陣道明寺口で伊達政宗の奥州騎馬隊が大坂方を圧倒した時、これを食い止めたのが旧武田家臣で騎馬隊の扱いに慣れていた真田信繁(幸村)でした。その配下に上穂十一騎がいたのなら少人数とはいえ武田と奥州の騎馬隊が最初で最後の激突をしたことになります。騎馬628頭と記録される伊達の大軍を一瞬でも止め、押し戻したと伝えられていれば、上穂のイレブン、もって瞑すべしかと。
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孔明にはなれなかったが   野崎 準 : 2017/04/27(Thu) 19:25 No.619
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8 述懐      藤田彪(東湖)
白髪蒼顔万死余。平生豪気未全除。
宝刀難染洋夷血。却憶常陽臼草蘆。

白髪、蒼顔万死の余。平生の豪気未だ全く除かず。
宝刀染め難し洋夷の血。却って憶ふ常陽の旧草蘆。

 幕末攘夷を主張して遂に実行されず、失意の内に詠んだ詩。老人となったが豪気(聞かぬ気)はまだ残る。夷人を斬ることはできないので、故郷水戸の旧草蘆(『三国志』の孔明が隠れ住んでいた南陽の草庵)に戻りたいと思う、の意。

 藤田東湖は安政二年の大地震で遭難死した時50歳でしたから老人でもないのですが、この時代は45歳ほどで職を退くのが普通で還暦まで生きるのは大変な時代でした。烈々たる憂国の詩で、水戸烈公徳川斉昭の詩と考えられたこともあるそうです。
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