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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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佐川官兵衛の刀   野ア 準 : 2018/01/30(Tue) 10:02 No.643
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11  「初テ官軍城下ニ入ル也。賊ノ不意ニ出、勿勿(ぶつぶつ)トシテ糧ヲ儲スル閑ナシ。佐川官兵衛精兵千許ヲ卒テ戦ヲ決シ出ルニ臨ミ、(松平)容保之ニ正宗ノ刀ヲ賜ヒ又城門マデ之ヲ送ル。官兵衛感激シ涙ヲ揮ヒテ辞訣ス」(『明治新訂国史略』第七巻「今上天皇」)

 幕末に愛読された『国史略』を石村貞一が補足した明治新刻版の会津戦争の一節です。すでに近代の銃砲撃の戦場で名刀を贈る、というのが面白く感じました。

『明治新訂国史略』第七巻(明治十三年発行)は嘉永三年の明治天皇践祚から明治十年の西南戦争終結までを納め、前半は大政奉還から戊辰戦争、後半は明治初期の政治状況、西南戦争と論功行賞、明治十二年八月の両陛下上野公園臨幸までを漢文体で記録しています。幕末明治を生きた人による年代記ですので迫力があります。
佐川官兵衛はおなじみ会津藩の英傑で、鳥羽伏見の戦いから会津戦争まで活躍、明治には警視庁に任官し西南戦争の警視隊指揮官として戦死した人です。

 本書は西南戦争の記事が詳細な割に官兵衛の戦死にはふれていません。この名刀はその後どのような運命を辿ったのでしょうか。官兵衛を扱った小説では戦死の時に佩用していたとありますが。
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自古風雲向北愁   野ア 準 : 2018/01/01(Mon) 09:57 No.640
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10 新年おめでとうございます。

 有感        副島種臣
金華松島奥東頭。自古風雲向北愁。
日本中央碑字在。如今靺鞨属何州。

 明治の外交官副島種臣(1828-1905)の作。日清日露戦争前後の風雲急を告げる中での宮城県多賀城市にある現重文「多賀城碑」を詠じた漢詩です。

 金華、松島、奥東の頭(とう)。古(いにしへ)より風雲、北に向かって愁ふ。
 日本中央の碑字あり。如今(ただいま)靺鞨、何州に属するぞ。

 「日本中央碑」とは坂上田村麻呂が蝦夷を鎮圧後、奥州に「日本中央」と刻んだ碑を立てた「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と言う歌枕の伝承に基づき、碑文に「靺鞨国界を去ること三千里」とある靺鞨(現ロシア沿海州)は今どこの国に属するか、と祖国の将来を案じています。

 江戸時代に多賀城の碑が知られると、東北開拓の中心地陸奥国府・鎮守府の地にある奈良時代の碑と言うので、この碑が「壺の碑」だとされ、芭蕉の『奥の細道』にも記録されています。

 明治になると「歌枕の壺の碑は田村麻呂の活躍した平安初期のもので多賀城碑はそれより古い、碑文に誤りがある・・・」などと、歌枕の碑と違う、のみならず偽作説まで出たのですが、この「靺鞨国」も「碑の立てられた当時は既に滅び渤海国となっていた」、と偽作説の根拠になっていました。

 今も続く北からの国難、日本は乗り切ることができるのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   花散里 : 2018/01/01(Mon) 10:06 No.641
1 明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

「北からの国難」何としても乗り切ってもらわないと困りますが、果たしていろいろな観点からの有効な手段はあるのでしょうか。
少なくとも現代よりは腰の据わった明治の日本人であったら、どのような考えをもったのでしょうか。
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Re: 自古風雲向北愁   真改 : 2018/01/01(Mon) 13:58 No.642
1 明けまして おめでとうございます。

本年も よろしくお願い致します。
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刀を三振もった神   野ア 準 : 2017/12/27(Wed) 21:28 No.636
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8  海の伝説を調べていました。江戸時代の随筆や瓦版に「神社姫という人魚が出現」というのがあります。

 文政年間(1818-1830)に肥前国の海から現れ、「竜宮からの使者の神社姫」と名乗り、疫病の流行を予言し、「我が姿を見た者は悪疫を免れるので、我が絵姿を印刷して配布せよ」と言ったと伝えます。手元の『日本の幻獣図譜』(湯本豪一・東京美術・2016)を見ますと人魚と言うより人面魚で、「尾が三本の剣になっている」とありました。どの瓦版も挿絵も深海魚のリュウグウノツカイに人面を頭に、三本の剣を尾につけた姿です。

 刀剣には基本魔除けの効力があり、妖怪は名刀を恐れますから、刀剣をもつ事で人類の味方、正義の神の使者を表しているのかも知れません。

 念のため魚の図録を見ましたが、カジキの類をswordfish, spearfishといい、太刀魚、秋刀魚は刀のような姿ですが、尾に放射状の三本の剣らしいもののある魚はいませんでした。何を象徴しているのでしょう。

 今年もようやく月一回投稿は維持できました。来年もよろしくお願いします。
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Re: 刀を三振もった神   花散里 : 2017/12/27(Wed) 23:07 No.637
1 野崎先生

本年も興味深い話題をご提供いただき、誠にありがとうございました。

来年もぜひ、これまで以上によろしくお願いいたします。

どうか、良いお年をお迎えください。
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[→637] Re: 刀を三振もった神   野ア 準 : 2017/12/28(Thu) 06:23 No.638
8  「野崎くん」は世間では月刊となっているらしいので・・・。

海の神で三本の剣というとギリシャ神話の海神ポセイドンが三叉の鉾(trident)を持っているのを連想します。南西諸島にはギリシャ神話「オデッセイ」の翻案だと昔から注意されている「百合若大臣」伝説がありますから、海神の使者も三叉の鉾を携帯していたのかも知れません。
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Re: 刀を三振もった神   真改 : 2017/12/28(Thu) 19:40 No.639
1 月一回の投稿。本当にありがとうございます。m(__)m。

私は主宰する立場になりながら、月一回の投稿がなかなかできません。
有難く存じます。

来年も、よろしくお願い申し上げます。
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北越太平記に   野ア 準 : 2017/12/19(Tue) 12:15 No.635
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11  江戸時代初期、滅亡した武田信玄の遺風だとして「武田流軍学」が広まり、『甲陽軍鑑』『信玄全集』などが出版されると上杉関係者も『川中島五度合戦記』などを発表して負けてはいないと反論します。その集成といえる『北越太平記』は上杉謙信・景勝二代の事跡を記録し、川中島の戦いなどの越後側基本文献になっています。ただし合戦の記録は後世の潤色が多く、『甲陽』同様信用のおけないところが多いそうですが。

 その『北越太平記』の中に上杉家臣伝があり、竹俣三河守朝綱の項目に
「朝綱の刀に栄誉の霊剣があり謙信に献上した。備前兼光の銘があり竹俣兼光と号し謙信のお気に入りであった。弘治二年の川中島合戦で信玄の側近に手にした鉄砲もろとも真っ二つにされた遺骸があり甲斐では謙信の竹俣兼光に斬られたのであろうと噂された。
 この刀を都に研ぎに出し、戻ってきた刀を見るとハバキ元の近くにあった小さな穴がなくなっており贋作とすり替えられたと判明した。直ちに石田三成が詮議しすり替えの関係者12人は秀吉の命令で磔になった。
この刀は秀吉に献上され、秀頼に伝わった。大坂落城の時持ち出されたと言うので和泉・河内二国に金三百枚の懸賞を出して探したが見つからなかった」
とし、更に「越後には名剣が多い」として仙台伊達家に伝わった宇佐美長光、本庄繁長に伝わった本庄正宗、米沢吉光なども解説していました。

 刀剣入門書によく出典を示さず引用されているエピソードが多いのですが、これが出典なのでしょうか?これも何かの本の引用なのでしょうか。分かりません。
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蒲生家の宝刀   野ア 準 : 2017/11/30(Thu) 22:19 No.634
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11  京都の民俗を調査された井上頼寿氏の『京都民俗志』(初版昭和8年、東洋文庫で再刊)を読んでいましたら蜈蚣(ムカデ)の民俗例の終わりに
「右京区妙心寺に蔵する棄君の宝剣は元俵藤太秀郷が三上山の蜈蚣を退治した時の鏃であった。それを子孫蒲生氏が宝剣として伝えていたのを氏郷のとき秀吉に献じた。
 さて献じてしまうと同氏は年を逐うて衰えたと『都林泉名所図会』に見える」
 とあります。

 豊臣秀吉の子で幼くして死んだ棄丸君の宝剣は倶利迦羅龍守刀で両刃の短剣、銘は備前福岡一文字派の「尚宗」で、鏃の作り直しという姿ではありません。

 蒲生氏と「秀郷蜈蚣退治の鏃を仕立て直した刀」の伝説は他にもあり。盛岡藩主南部利直の妻於武の方が蒲生家から輿入れの時の守り刀、没後墓に蜈蚣が群れるなど怪異があった、と伝えます。

 京都の町衆は「伝家の宝刀は天下様に頼まれても献上するな。家が傾く」という考えだったのでしょう。名刀の海外流出の話を聞くと思い出します。
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国宝展後期へ   野崎 準 : 2017/11/16(Thu) 18:40 No.633
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10  京博の『国宝展』後期を再訪しました。平日の朝早く行ったのですが入館前に長い行列で会場も満員でした。縄文土器から雪舟・宗達・光琳まで美術工芸品200点以上ですから全国からの見学者なのでしょう。

 金工の部屋、刀剣展示は永青文庫蔵「豊後行平太刀」とふくやま美術館の「太閤左文字短刀」でした。甲冑は島根県日御崎神社の「白糸縅大鎧」が出ていました。

 大鎧の縅糸は「若武者が赤や緋色、壮年は紺や黒色、大将級は高貴な紫糸」が基本で、個人識別のため大袖などに豪華な模様が入るのが普通ですが白糸は珍しいです。鎌倉時代後期14世紀ですから白鳥の騎士やガンダムとは無関係でしょうが。
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一休和尚と朱塗りの大太刀   野崎 準 : 2017/11/08(Wed) 19:25 No.631
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9
 秋の文化財公開で東山祇園の近く、建仁寺境内の霊源院を見学してきました。

 一休禅師が若い頃修行した寺というので「祇園一休寺」と称して画像や墨跡を蔵しています。見学時には「一休朱太刀像」が初公開されていました。曲□(きょくろく)に座した一休和尚の右(向かって左)に長大な朱鞘の野太刀が置かれています。

 堺に布教の時この太刀を持ち、「僧侶が武器を携帯するとは」、と非難されると「これは木太刀じゃ。抜くことも切ることもできぬ。殺人も活人もできぬ未熟な禅僧の如し」と、当時すでに形骸化しつつあった臨済禅を批判したのだとか。

この図のように柄を下にして立てかけるのが野太刀の正式な置き方などでしょう。右側に置くのは一般の刀と同様抜き打ちが出来ない位置です。有名な図で、一休和尚終焉の地、酬恩寺などにも同様の画像があります。

 写真の出ている集印帖用のカードを求めましたら見学の日付と「大丈夫 心配するな なんとかなる」という文が記入されていました。
 晩年京都大徳寺の住職となり応仁の乱の焼亡からの再建に尽力した一休の遷化後、財務の行き詰まりで困惑した大徳寺の僧たちが「禅師が亡くなるとき『愚僧の死後、寺に一大事が起きたら開け』と遺された封書があった」と開封したら「大丈夫 心配するな なんとかなる」と書いてあったとか。僧たちは大笑し、元気を出して再建を続けたと。まあ後年に出来た「一休さん伝説」の一つなのでしょうが。
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Re: 一休和尚と朱塗りの大太刀   野崎 準 : 2017/11/09(Thu) 22:29 No.632
9 □=「録」の字の旁です。 [返信]
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国宝展   野崎 準 : 2017/10/20(Fri) 09:31 No.629
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8  京都国立博物館創立120年記念『国宝展』を見てきました。全国からの国宝200点以上を4期に分けて展示という豪華な物です。平日の朝一番に行ったらもう長い行列で、館内も大混雑でした。

 見学した日の刀剣展示は河内金剛寺の黒漆宝剣拵付き剣(平安時代)と古備前の「備前国 友成造」(東京国立博物館蔵)、「銘 正恒」(文化庁蔵)の二振の太刀が展示されていました。後期は永青文庫の「豊後国行平」と広島・ふくやま美術館の「太閤左文字」が展示予定とありました。

 美術館なので武器・武具が少ないのが残念でしたが、厳島神社の大鎧も展示中でした。
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Re: 国宝展   真改 : 2017/10/20(Fri) 14:10 No.630
1 野崎先生、こんにちは。

運慶の展覧会やら、ご紹介頂きました「国宝展」やら、全国的に日本の文化財の展示会が目白押しです。

もっぱら刀が好きな私ですが、仏像や絵画も大好きですので、とても嬉しい限りです。

大鎧といえば、四国では大山祇神社のお宝が有名ですが、まだ行ったことがないのです。
なかなか足が向かない、そんな気分を一新したいです。
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秋霜三尺   野崎 準 : 2017/09/08(Fri) 07:48 No.624
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11  雨続きの東日本と猛暑の西日本だった夏も終わりました。

「刀剣=五行では金・秋」を追いかけていましたら平安時代の『和漢朗詠集』が出てきました。「将軍」の詩歌の中に
「雄剣在腰 抜則秋霜三尺。雌黄自口 吟亦寒玉一声 順」
雄剣腰ニ在リ 抜ケバ則チ秋ノ霜三尺。雌黄口ヨリス 吟ズレバマタ寒玉一声。
源順(みなもとのしたごう)の漢詩で、将軍とは腰に名剣を携え口には雌黄(文書修正液)を含み義に違うことを許さない」という位の意味です。

 岩波日本古典舞楽大系の注釈には「雄剣=干将が雌剣雄剣を鋳造した(呉地記)。秋霜=呉の季札の剣は三尺、霜雪の如く氷の如くであったと言う」とあります。
 呉の季札(きさつ)は『史記・呉太伯爵世家』に見える春秋時代の呉の王子で、友人の欲しがっていた名剣をその死後に墓の木に掛けて去ったという故事で有名ですが、青銅器時代末期の話ですし、『史記』には「霜のごとき剣」は出てきません。

 幕末の国学者・歌人の橘曙覧が刀を贈られた時の歌に
抜くからに身を寒くする秋の霜 心にしみて嬉しかりけり
 とあり、土井晩翠の『荒城の月』二番の「秋陣営の霜の色」も秋霜=刀=植うる剣と対応させた言葉だという説もありますので、刀を秋霜とすることは一般にも周知だったようです。
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Re: 訂正   野崎 準 : 2017/09/08(Fri) 18:54 No.625
11 訂正
 呉太伯爵世家 → 呉太伯世家
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Re: 秋霜三尺   野崎 準 : 2017/09/30(Sat) 05:42 No.626
11  図書館で数種類の漢和辞典を見る機会がありましたので「秋」の項目を見ましたが、「秋霜」「秋水」「秋剣」などは最近の辞典では「秋霜烈日」関連で「秋霜」が出ている程度で、全く記述のない辞書もありました。

『和漢朗詠集』の秋霜三尺の解釈があまり詳しくないのもそのためかなと思いました。
 現代の生活では刀剣用語は遠い世界の言葉になって行きつつあるのでしょう。
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Re: 秋霜三尺   花散里 : 2017/10/02(Mon) 11:59 No.627
1 「秋水」で検索してみても、Hitするのは大東亜戦争終戦間際のロケット戦闘機か、思想家の幸徳秋水ですね。

富山県で昨年の6月に開館した「森記念秋水美術館」が、かろうじて・・・と言ったところでしょうか?

http://www.mori-shusui-museum.jp/
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Re: 秋霜三尺   野崎 準 : 2017/10/13(Fri) 17:22 No.628
11  旧制第二高等学校(仙台)の応援歌の「凱歌」に

♪秋水ひとたび閃めけば君は無人の境行く・・・

という一節があり、東北地方の新制男子高校でも応援歌として歌われ、「秋水」が名刀の事だとは皆知っていたはずです。

ただ出典が分からないのですね、明治は漢詩吟詠が盛んだった時代ですからどこかにあると思うのですが。
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山本勘助はかく詠じた   野崎 準 : 2017/08/28(Mon) 12:14 No.623
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10  江戸時代初期の物語に浅井了意『伽婢子』(とぎぼうこ・おとぎぼうこ)があります。室町物語と元禄時代に現れる江戸の「浮世草子」の中間に置かれる物語で、作者の浅井了意は中国文学にも通じた僧侶で、唐・宋・明の怪異小説を日本の物語に置き換えた多数の物語が含まれています。伽婢子とは幼児用の人形のことです。

 その中に「幽霊諸将を論ず」という作品があり、甲斐国恵林寺の精霊会の夜に山本勘助、直江山城守などの名軍師の霊が現れて戦国時代の合戦を論じるという物語があります。中国の「剪灯新話」に五代から唐時代の豪傑の霊が談論する話の翻訳だそうですが、話を終えて冥界に戻る諸将が漢詩を読み、山本勘助は

「平世ノ知略、胸中ニ満チ。剣は秋霜ヲ払ヒ気ハ虹ヲ吐ク。
身後何ゾ濫(みだり)ニ興廃ヲ論ゼン。憐ムベシ怨恨ノ深窓ニ嘯(うそぶ)クヲ。」

まあ、史実でなく浅井了意の創作でしょうが、他の豪傑たちの漢詩と違い剣が出てくるのがヤマカンらしいと思いました。
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