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お盆が来る。 来るというのも面白い表現だが、昔は親せきが盆礼といって、互いに親戚の間で挨拶回りに行ったものだった。 正月礼もあり、秋祭りにも互いの交流があった。なんなら、お彼岸にも濃い身内は来ていたので、それこそ、法事なんかを入れると、昔は人の数や親せきの範囲も広かったので、年に何度も知らん人の顔を見ては、「あれ誰?」と爺さん婆さんに聞いたものだった。 仏壇に奉られる「バナナ」や「フルーツ缶詰」は、子供だった私にとっては、とても嬉しいものだった。
そんなことを思い出しながら、昨夕、仕事が終わってからお墓の掃除に行ってきた。 老人会や町内会が行ってきた地域の墓地清掃活動もなくなり、個人個人で除草をするようになったので、草が生え放題になっているお墓もあり、昔は、都会に移住した子孫の方が、町内会や老人会へ除草のお礼をされていたものだが、そのような気遣いもなくなり、地元に子孫がいないお墓は、荒れ放題だ。
我家のお墓の隣も立派なお墓で、子孫の方が大阪にいて、今後は帰省もされないとのことで、墓じまいをされた。ご丁寧に、自宅にまで挨拶にこられ、これまでのひょっとしたら100年以上の互いのご先祖の交流に思いを馳せ、締めくくりとした。 我が家の墓の横にポツンと空いた一画の空間は、時代の波がこんな身近にも来ていると感じさせる。昔ながらの共同墓地なので、昔の墓じまいの跡を見ると、墓石を横に寝かせて、もう魂はここにありませんと、周囲に訴えているのがそこかしこにある。 そのような方法でもいいのに、完全に撤去してしまった跡には、もう痕跡すらないので、一層物悲しい思いがする。
誰もお参りする人がいなくなっても、石でできたお墓は、今後、何百年も存在し続ける。実際、そういうお墓が周囲にたくさんある。 墓じまいのあり方も、一様ではないので、子孫はこの地にいなくなり、もう誰も来ないかもしれないが、そのままで置いておくのも一つの墓じまいの方法かもしれない。 墓地全体がそのような所も実際に近くあるので、それも歴史かと感じる。
お盆を前に、お墓の清掃をしながらそんなことを思いながら、汗をかいた。 この秋、霊園にある母方の墓地が、その家系に後継ぎがなく、永代供養のため墓じまいとなる。 ご先祖は、お参りがなくても、お参りされる方がいなくなっても、墓じまいを望んでいるのだろうか。霊園や寺にある墓なら致し方なしか。
やがて私も逝く。子供たちは、どう考えているだろうか。 |
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